倶楽部メモ(430)
平成20年 6月13日〜 6月16日



投稿者 マロネロ38
投稿日 2008年 6月13日(金)15時33分29秒
タイトル 戦前の食堂車-2参等客
EF5841様
必ずしもそうでは無かったと想います。特急は優等車が多いからそうなったでしょ
うが、ローカル急行の場合は精々ロx1+せいぜいスロハ31−32(昼間到達列
車)なので「ハ」の人々も食堂車を利用していました。夕定食時間に大体酒を出さ
ず、終わってから「酒の時間」=昭和17年8月402レでした。
17‐18レは父が東京往復に度々利用していましたがこれは「1.2等急行」、
17−18レは「富士」、「さくら」と反対ダイヤで呉線経由の「海軍列車」?でした
から士官の利用が多く洋食堂車でした。話のついでですが、「富士」、「桜」は関釜
連絡線夜行便で「ひかり」に連絡、17‐18レは「昼便」で「のぞみ」連絡でした。
スジや編成などを考えると当時は「ひかり」の方が「のぞみ」よりも「格上」だった
様です。



投稿者 雑魚
投稿日 2008年 6月13日(金)16時30分28秒
タイトル 板谷峠
▼下総守こみや様
> メードスタイルは確かに往年を思い出します。(耳と尻尾は当然無かった)

食堂車「星空バー」がフル稼働状態だった頃の「出雲」でしたか、丑満時に食堂車を
横切ると「メイドさん」達が、制服着用の侭、客席に突っ伏して仮眠中でした。髪を
振り乱しつつ涎を垂らすその様子に、百年の恋も醒めましたね(^^)

▼523レ様:
> 駅の一方は直流(中略)なのに対し、別の一方(北側)には交流、直流が並在

なるほど。米原駅は北陸線電化に合わせ、大阪方面行の列車が東海道線下りホームに
スルー進入する様になりましたし、福島駅の奥羽線上り列車でも同様の措置があれば、
支線直通列車の為に、本線上にピン・ポイントで地上切替区間を設置する必要があり、
設備保守の面では、確かに煩わしいですね。

本線から分岐して早々に山越えとなる奥羽線はさて置き、分岐後も長浜・木之本など
街が続く事で、琵琶湖岸の一体的な電車運行体系(現アーバン・ネット・ワーク)を、
北陸線まで及ぼす発想は、1957年の電化開業時に存在しなかったのか、と感じますが、
要は、機関車交換を一大要衝である米原の周辺域で纏める必要性という、客車主流の
時代ならではの発想かも知れませんね。

▼コスモス様:
> こちらでは、初めて発言させていただきます。

どうも初めまして(^^)打倒「ツチコー」一筋、スイコー出身の雑魚と申します(^^)

> 構内の一部分だけをSLが担当する方法でした。

当時「中継区間」は、純粋な「非電化区間」だったのでしょうか。架線柱の類が全く
無かったとすれば、これは興味深い光景ですね。

板谷峠が電化されたのは1949年。この時ようやく、スイッチ・バック各駅に通過線が
設けられた様です。それまでは深夜の急行といえど、乗降客の存在も疑わしい状況下、
赤岩〜大沢の各駅に停車という、いわば矢岳越えにおける「えびの」と同様の現象が
見られた訳ですね。

件の電化後、峠を行き交ったのは「デッキ」仕様のEF15あらためEF16で、その後、
1964年から交流化された68年まで、EF64が導入されました。同機がキハ80系による
特急「つばさ」を牽引する様子は、同じ時期に同じ形式で運転された特急「白鳥」が
碓氷峠でEF63に牽引される情景とそっくりで、よく勘違いしたものでした。

板谷峠より早い1937年に直流電化された仙山線の仙山隧道の前後(その後、1960年に
直流仕様の侭、山形まで電化延伸)における当時の白黒写真を見ると、ED14という、
見るからにクラシカルな機関車が映っています。

仙山線といえば、北仙台〜作並で交流電化方式の総合試験が行われた事が有名ですが、
それもこれも、当時は専ら仙台〜山形の都市間移動需要に特化し、愛子を中心とする
旧宮城町域への仙台都市圏の展開、延いては通勤列車の為にダイヤを編成する必要が
殆ど無かったた為でしょうね。



投稿者 ED76109
投稿日 2008年 6月13日(金)18時47分57秒
タイトル 様々な話題で楽しいです
 また、飽きずに失礼いたします。多くの先達の皆様方の書き込みを読むだけで時間を忘れてしまいます。
今回は特に、自分としては思い入れのある客車急行「桜島・高千穂」に関する資料や想像すらつかなかった
戦前の「セレブ(!)」な食堂車事情、そして、食堂車の体験談等で、またまた賢くなったように思います。
 さて、今回は、小生が印象に残っている鉄道が関わる「映画」について戯言を記させていただきます。
先達の皆様方の話題にして頂ければ、眼福の極みであります。

 1 昭和33年に公開された「張込み」のラストは、刑事(大木実さん)が殺人犯(田村高広さん)を逃亡先の佐賀から
  東京まで護送するために乗車する急行「西海」(だと思うのですが)が佐賀駅に到着し発車するシーンです。
  迫力あるC59(?)が牽引する旧客の姿はともかく、佐賀駅の案内放送が「西海号の停車駅は、鳥栖・・
  門司、下関、厚狭、小郡・・大阪、京都、大津、彦根・・名古屋、蒲郡、豊橋・・横浜、品川、東京です。」
  と独特のイントネーションで停車駅を告げ、九州からの遙かなる旅路を想像させるくだりは印象に残っています。
  まさしく、昭和30年代は東京から九州へ移動はある種「大旅行」であったのでしょう。
  (冒頭で横浜から急行「さつま」で九州へ向かうシーンも、当時の夜行急行列車の様子がうかがえます)

  2 昭和45年に公開された「家族」は、長崎の炭坑に勤める主人公(井川比佐志さん)が、妻(倍賞千恵子さん)や
  老いた父親(笠智衆さん)らとともに、北海道の中標津町のパイロットファームまで移住するというストーリーです。
  この中では、桜が咲き誇る九州から残雪深き北海道の美しい風景とともに、様々な「急行列車」が登場してきます。
  その中で最も強い印象があるのは、強行軍のなかで急死してしまった幼子の遺骨を抱いて「トホホセ」を
  一路北に向かう昼行の客車急行列車(昼行の「八甲田」号でしょうか?)に乗車しているシーンです。
  曇天の車窓風景は、東北独特の「愁い」に満ちており、幼子を亡くした悲嘆にくれる倍賞さんの名演技と重なって
  筆舌に尽くしがたい汽車旅を描いていました。
  (また、青函連絡船に同乗する「渥美清さん(喜劇「急行列車」の名車掌)」の好演が光りますね。)

 3 昭和49年に公開された「砂の器」は、社会派「松本清張」の名作の映画化作品です。
  この中では、今西刑事(丹波哲郎さん)らが犯人和賀英良(加藤剛さん)の過去を辿る旅に出るのですが、
  食堂車が連結された急行「鳥海」や羽越本線のローカル旧客鈍行、さらには急行型DLによる「まつかぜ」等が
  美しい日本海沿いを走行するシーンが登場する大変「鉄」色の濃い映画です。
  (何度かリメイクされていますが、リメイク作品のいずれもが「鉄」分に富んだ内容となっています。)

  他にも、「飢餓海峡」や「点と線」などストーリーのすばらしさは言わずもがな、
数限りなく鉄道の名シーンが登場する映画は少なくないと思います。
いずれは消えゆくであろう「汽車旅」が描かれている映画を大切にしたいと思います。
 また、投稿させて頂きます。失礼致します。



投稿者 てりてり
投稿日 2008年 6月14日(土)00時06分40秒
タイトル ご無沙汰しております
 皆様こんばんわ。私は九州に住む「てりてり」と申します。
ED76109 様。はじめまして。私も映画の中で鉄道が出てくるのを楽しみにしているものの一人です。
此処での「映画」は劇・記録・ニュース映画の事であります。特に列車の登場となると内容そっちのけで観ていました。
最近では昔の作品が比較的手頃な値段で入手出来る様になりましたし、此処にお集まりの皆様のご協力で色々と拙い記憶が
蘇る事があります。
 「張込み」。以前何と無く見始めたのですが、正に夢中になってしまいました。
冒頭の横浜駅の場面から最終部の佐賀駅までと正に鉄道映画、と言っても過言ではないでしょうか。
また「キューポラのある街」も隠れた鉄道映画なのかもしれません。
 鉄道ピクトリアル538号(91年1月号)に『日本映画に見る鉄道シーン』と言う項目がありますが、今でも映画を観る時に
重宝しております。それだけ鉄道が身近な存在だったのかもしれません。
 つらつらと駄文を書いた事をお詫び申し上げます。これからも宜しくお願い致します。
それでは。



投稿者 「ED76109」
投稿日 2008年 6月14日(土)06時53分30秒
タイトル よろしくお願い致します。
 てりてり様
 初めまして。北の大地在住の「ED76109」と申します。
前述しましたが、東京の産にもかかわらず、縁あって札幌市内の高校に勤務している「中年客車鉄ちゃん」です。
鹿児島の出水に親類がいる関係から、「桜島(霧島)」「はやぶさ」等に親しんだ結果、「鉄」の道を歩んでおります。
「乗り鉄」専門ですので、先達の皆様方の専門的な知識には感心かつ敬意を表している次第です。
てりてり様、こちらこそ、よろしくお願い致します。
 以上、6月の中旬だというのに、今日のオホーツク地方の最高気温が「10℃」と聞いて冷夏にならないように念じる、
「道民球団熱烈応援団」の「中年客車鉄ちゃん」でした。



投稿者 雑魚
投稿日 2008年 6月14日(土)14時35分35秒
タイトル 今夏の 12系運用
今朝は、当地も相応に揺れました。今夕発の「カシオペア」「北斗星」は運休が決定。
それ以前に、被災地の親類や知人が気になりますね。ニュースで案内された「災害用
伝言ダイヤル 171」も、被災地優先モードで、利用出来ない状況です。

▼ED76 109様
> 渥美清さん(喜劇「急行列車」の名車掌)の好演

私が記憶しているのは「富士」車内で女性客が産気づいた場面くらいです。同作品が
公開されたのは、新田原〜幸崎の電化と同じ1967年です。当時、門司以遠の牽引機は、
DF50の牽引(電化翌年から大分以北はED74が牽引)ですが、あの機関車が20系を
牽引する様子は、画一性が高かった当時の国鉄車両群にあって、正に「花形」でした。

さて、昨日発売のDJ誌を改めますと、四月末に門司港〜日田〜豊後森で運転された
DE10+24系(元「なは」用四両)による「九州鉄道記念館」開館五周年記念列車が
紹介されており、筑後川が絡む久大線の風光明媚な沿線風景を背景に、好感度抜群の
構図でした。しかし、掲載写真を見ると、電源車の側面が汚損気味と、少し悲哀気味。

久大線といえば永らく、12系による定期普通が定番でしたね。同様の編成内容による
初夏恒例の常磐〜水郡線の目玉「矢祭町民号」は、どうやら今年の運転が無さそうで、
七月末恒例の「烏山山あげ」運用共々、高崎の12系を巡る動向が、益々気になります。

画像は、昨年運転された「矢祭町民号」です。




投稿者 himeikanai
投稿日 2008年 6月14日(土)16時17分44秒
タイトル 構内配線
文末たった一言の「米原構内の配線変更」の話が膨らみ、おそれいります。
そういえば、暫く前に話題だった1956.11改正関連の京都附近でも、京都〜向日町がそれ以前の線路別を
現在の方向別に改めたと、何かの本で知りました。
元は梅小路の出入のため北側2線が貨物、西大路のある南側2線が旅客で、線路容量の均等化を図って現状になったと。
変更前、上り旅客列車は京都駅進入前に貨物2線を平面横断していたそうで。
(大船の東海道下りの上をゆく交通量で、さぞうるさかったかと)

拙者、実は、まともに記憶している汽車旅としては、中学生の頃の上野発高崎行→長野行(承継し1日がかり新潟行)
が最初で、当時の足寄の有名歌手の「人生の空から」が印象にカブったお蔭で記憶が強化されています。
小学生の頃の中央西線は記憶が殆ど風化しており、「乗った記憶」の記憶として2次的に憶えている程度
(断片的な光景が当時の時刻表や、当時と大きくは変わっていない現在の上松駅の情景(林鉄を除く)と矛盾だらけで、
おそらく別の記憶と混ざっており、本当に記憶していると言えるのか甚だ疑問)。
「桜島・高千穂」オロ11など先述(倶楽部メモ(426))のとおり、乗ってすらなく外で撮った写真だけ。

振返ってみれば、日本の客車で最も乗った車輌はおそらくオハ12系で、オハ(フ)50、固定編成寝台系がそれに次ぎ、
オハ35一族(大抵スハ42)やスハ43一族(大抵オハ47)は極僅か。
ナハ10一族や、オハ61一族、ハニ等合造車、各種在来型ネ・ロザ等優等車は皆無であります。
下手すると国内より国外の方が客車乗車総延長距離が長いかも知れません。
そういえば、初の国外旅行は先ず「あかつき」の3列ハザで博多へ出て、船で出国しました。
せめて中学〜高校生の頃に、辛うじて残っていた常磐線を東京近郊区間だけでも乗るべきであったと、
返すがえす本当に悔やまれます。
30歳台になるとその後悔に学び、京都名古屋間でよく乗った「ひかり」では必ずと言っていいほど食堂車を利用しました。
夕食時間でなければいつ乗ってもガラガラで、その後の廃止も当然に思われました。
食堂車はいつ頃から客が減ったのか??

今朝は栗駒地震(最近の制式名称は無駄に長過ぎ)で大変ですが、
実は、正にこの土日に福米・山形・仙台への1泊旅行を水にしたところでした。
(金が工面できず、半月程前に宿の予約を断念)
「土日きっぷ」(だったかな?最近ありがちの覚え難い名前)買っていたら完全に赤が出てました。
貴重な休みの日の撮影行が流されて残念な方も多いかと思いますが。(左沢の蒸機?)
10年前の6月、Deutsch経由でWienに旅行した時、Frankfurtに着陸した正にその日にICE脱線事故がありました。
予定していたICEの1時間前の便が遅れてやってきて不思議に思い、翌日の新聞で知って驚いた事があります。
Zurich直通でなく、Baselの、それも手前の駅(Bad.)止りで、(東京の品川と言うよりは、近距離列車がないので、
釜山の釜田に似た感覚)今日中に予定どおりZurichに着けるか少し不安で、結局1時間程後のintercityに乗れ、
今度は編成調査で歩き回りヘトヘトになった筈。
さらにその3年前、神戸大震災(英文標記ではHanshin~でなくKobe~らしい)の日は、
18切符消化試合のため始発で越美北線に向かう予定が、強制取消になった事があります。



投稿者 理左衛門(バロン)
投稿日 2008年 6月14日(土)18時15分52秒
タイトル 乗車した客車
私の場合、物心ついてから高校生まで、列車=旧型客車でしたから、43・35・61系にはたくさん乗りました。
また、大学時代の帰省は必ず「八甲田」でしたから、14系ハザにも多く乗りました。
ついで12系(臨時津軽やばんえつ物語等の臨時列車)、24系25型となります。
50系にも乗車の機会がありました。
 無念なのは20系に乗ったことがないことです。また10系にもおそらく乗ったことがないはずです。
投稿者のホームページ



投稿者 himeikanai
投稿日 2008年 6月14日(土)19時52分29秒
タイトル 乗車した客車(今となっては贅沢な愚痴
本日2度目のhimeikanaiでございます

中学卒業旅行で初めてスハフ32や、その他在来型、50系に乗り、帰路はガラガラの臨時八甲田オハ12。

大学受験旅行で銀河ナハネ20。大学に入った頃は定期運行の普通客車列車の最末期で、
山陰線京都口に在来型は既に無く、辛うじて12系、50系に乗れました。
どれも8輌編成で、記録のための右往左往が面倒で、途中駅からの近距離乗車だと無闇に忙過ぎ、
走行中に車内移動で記録しようとすると、オハの連結方向や座席色を記録し忘れて戻ったり、
正直、気が重かった印象が・・・。

記録といえば、中学卒業旅行の東北本線仙台局の客レはどれも長編成で、所属区や、横軽対応の有無、連結方向、
更には肝心の青か茶かを書忘れて再び戻ったり、
そのうちに疲れてきて一体何の為に走り回っているのか分からなくなってくる始末。
今となっては大変貴重な記録(の筈)ーーー荷物のどこにしまったか未だ発掘できないでいます。

その後の客車利用は10年程前に韓国や西欧、ごく最近の寝台列車の名残乗車程度です。
日本で最近増えてきた蒸機牽引列車は、まず滅多に切符がとれないので・・・。
西欧のも情報量の多さから、記録が超大変で、設備(開放か個室か)、向き(廊下がどちら?)、記号の意味
(等級と設備でなんとか類推)、UIC基準の国際番号と車体色、号車番号で手一杯(国籍はUIC番号で後に判明)。
はっきり言って昔の貨物列車並みの情報量。
多層建てが多いせいか、ダブりを防ぐために号車番号は無闇に大きいし
(Barcelona発Paris行Zurich行併結のTalgoなぞ、何と3桁!)・・・。
韓国は車番が、当時の無窮花号や統一号、鈍行では何と台車に書いてあり、これがまた大変見難い。

座席14系・・・特急運用で乗った事は多分無し。博多ゆき臨時夜行快速くらいかなあ



投稿者 「ED76109」
投稿日 2008年 6月15日(日)00時32分6秒
タイトル Re.様々な話題で楽しいです
  まず、岩手・宮城県境付近で発生しました「地震」に係り、被災者の皆様方に心からお見舞い申し上げます。
また、一日も早い鉄道の復旧を心から祈念申し上げます。(本日2度目の投稿です)

 雑魚様
 「渥美清」さん関係の映画(作品名はハッキリしませんが)では、上越線の急行「佐渡」号の車掌役
 及び四国の「予讃線」の「伊予和田(実名かどうか?)」駅の駅員役を演じた作品があります。
 いずれも役どころは、少々ドジではあっても人間味豊かな人情溢れる鉄道員役です。
 (あとは「フランキー堺」さんの演じる人情車掌シリーズがありますよね。)

 himeikanai様
 「ED76109」でございます。贅沢な愚痴を少々記させて頂きます・・。

 「思い出の鈍行紀行」

 1 旭川発函館行の「122レ」(昭和48年春・スハフ32「函ハコ」)
   夜明け前の「旭川」、雪原の石狩平野、寒風すさむ日本海の「張碓」、
  雪に埋もれた山線の峠駅「上目名」そして夕焼けの噴火湾から遠くに駒ヶ岳を望み、
  連絡船待つ「函館」への約13時間半の旅・・。
  「乗り鉄」として小生が目覚めた記念の鈍行紀行でした。

 2 西鹿児島発門司港行(日豊本線回り、列車番号不明・昭和53年夏・オハフ61「門モシ」か「鹿カコ」(?))
      早朝5時過ぎに西鹿児島を発車し、21時頃門司港に到着した「酷暑の旅」でした。
  特に宮崎・延岡間では、なぜか停車する度に列車交換もないのにほぼ10分ずつ停車し、
  「川南」では車内温度が「35℃」になったことを記憶しています。
  しかし、「宗太郎」付近の信号所の蜩の大合唱と峠越えは抜けるような南九州の青空とともに、
  小生を旅情を誘うセピア色の風景でありました。

 3 出雲市発下関行(列車番号不明・昭和56年、57年、59年夏・オハフ35、オハフ50「米イモ」)
  山陰の鈍行紀行のエンディングは、出雲市を9時前後に発車して下関に18時半過ぎに到着する、この列車でした。
  左側の車窓は、中国山地を遠くに望むのどかな田園風景。
  そして右側の車窓は、まさしく松林広がるコバルトブルーの日本海・・。
  下関のホームに降り立つ時は、いつも旅の満足感を感じつつも、旅の終焉に一抹の寂しさを感じておりました。

 いつも、最後尾の車両の一番後ろのボックスに座席を取り、デッキから後ろへ流れる風景を眺めるのが好きでした。
 もう二度と味わうことができない寂しさがありますが、
若いファンの方々には経験できない汽車旅を満喫できたという思いは持っております。

 失礼致しました。



投稿者 らん丸
投稿日 2008年 6月15日(日)21時35分46秒
タイトル 「並ロ」を連結した最後の優等列車
「特ロ」が主流となり、特急・急行からはずされた「並ロ」ですが、それを連結していた最後の列車は、何でしょうか?
色々資料を検索しているのですが中々見つかりません。

ただ、優等列車に使われた最後の「1等C寝台車」が「利尻」のマロネロ38なので、ひょっとして「最後の並ロ」は
マロネロ38かもしれませんが?



投稿者 ヒゲ無し雷鳥
投稿日 2008年 6月15日(日)23時53分37秒
タイトル Re「並ロ」を連結した最後の優等列車
こんばんは。
らん丸様の疑問を確認してみたところ、RP775号に答えを見つけました。
それによると、S36・10改正までの那智と羽黒のマロネロ38、
不定期桜島のオロ42が最後の急行運用で、以降廃車・他形式への改造
・格下げ運用が行われ、S41・2準急利尻でのマロネロ38、S42には
紀伊田辺区のスロハ32形式の廃車により現役並ロは消滅したとのことです。
また格下げ運用の車両たちも、このころまでに通勤仕様に改造されたようです。



投稿者 下総守こみやさん(^^)
投稿日 2008年 6月16日(月)00時37分54秒
タイトル 燕の件御礼
マロネロ38さん、EF5841さん
貴重な体験をお聞かせ頂きありがとうございます。私は東海道新幹線と同級生でして(^^;

キングスから臨時燕の完成品があるみたい。
ハニからスシまで丸屋根なのでハを1両追加して持っているロとイテを連結すれば・・・
EF53,EF55,C5343も活躍できますよね?管理人さん(^^)

P.S管理人さん、先日はご教示ありがとうございました。
資金はどうしよう(^^;

岩手宮城内陸地震・・・亡くなった方のご冥福とお怪我なさった皆様お見舞い申し上げます。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2008年 6月16日(月)14時15分28秒
タイトル 臨時燕
展望車は「無し」でしたよ。最後部はマイネロフ37(戦後のマロネフ38)でした。
マイネロフ37が「鴎」に連結されてからは多分予備車総動員でマイネロ(未改造)
まで動員されたみたいでした。但しW屋根ですから自作でしょうね。
このHPの旧客アルバムに「能登」のマロネフ38(拙作)を出してもらっています
からご参考になさってください。但しイネとロの間の「ボーイ室」窓が一個増設
されています。



 
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