倶楽部メモ(428)
平成20年 6月 1日〜 6月 8日



投稿者 EF5841
投稿日 2008年 6月 1日(日)23時59分15秒
タイトル Re:3A仕業
運用サボに回送列車までは記入しません。
330列車の運用につく前に、2列車の運用についております。
急行ではなく、普通列車です。



投稿者 雑魚
投稿日 2008年 6月 2日(月)00時06分32秒
タイトル 遜色急行
▼廣瀬正幸様:
> 車内改札のカレチさんに「親父」が「急行料金を払う理由」を尋ねていたこと

近郊型における急行料金徴収の正当性については、議論の余地があるかも知れません。
こうした事例については「ウィキペディア/遜色急行」で 詳述があります。115系は、
1968〜76年に「なすの/日光」「あかぎ/ゆけむり」で、1968〜1978年に「かいじ/
かわぐち」で、それぞれ一部便に充当されています。

この項では言及がありませんが、既述の様に、私も80年代半ば、旭川→遠軽(以遠は
各駅停車で名寄線興部に直通)の昼行「大雪」で、アコモ未改造の単行キハ40という
素敵な経験がありました(^^)現在、昼行では唯一の定期急行となった「つやま」も、
明らかに「遜色」ですが、快速「ことぶき」が輻輳する状況の下、いつまで急行枠を
維持する事やら………



投稿者 EF5841
投稿日 2008年 6月 2日(月)00時15分15秒
タイトル T字型列車無線アンテナ
青大将に取りつけられていた「T字型列車無線アンテナ」、
その取りつけ方法について、東京区と宮原区所属機とでは異なっていることに最近気付きました。
東京区(浜松工場施工)はセンターライン上に、
これに対して宮原区(鷹取工場施工)は進行方向右側にオフセット配置になっております。
「T字型列車無線アンテナ」、有名な割には不明な点が多いので興味心身です。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2008年 6月 2日(月)12時52分48秒
タイトル 大阪>京都、京都>米原?
時間帯的に不可解ですね。
単機回送なら兎に角大阪>京都の短区間では----
米原までなら501レが重たいですから前補機も考えられますが、それなら大阪から
重連で走るでしょう。昭和32年に501レに乗車の時に、重連だったかどうか?記憶に
ありませんが---
昼間に時々505レ「ゆのくに」や503レ「立山」がEF58重連だった事はありますが
(前補機がパンタを一丁下ろしていたのが多かった)
どうも大阪>京都の短区間が不可解です。



投稿者 ED76109
投稿日 2008年 6月 5日(木)14時00分58秒
タイトル SL常紋号関連です
また、懲りずにお邪魔いたします。いつも、先達の皆様のお話を楽しく拝見しております。
さて、表題の件に係りまして、6月28・29日(土・日)にSL常紋号が運転されます北見・遠軽方面について、
取るに足りない「戯言」を記させていただきます。
撮影やご乗車のご予定の方の参考になれば幸いです。(全然役立たないかもしれませんが・・・)

1 撮影で利用されるであろう「国道」は、ほぼ石北本線と平行しています。
 ただ、この時期は沿線を「エゾシカ」がうろうろしており、特に白滝・遠軽間及び生田原・留辺蘂間は要注意願います。
 「エゾシカ」は車を見ると突進してくることが多いので、慎重な運転が大切です。
 また、沿線は「ヒグマ」の出没地帯で、6月ごろは冬眠開けの時期と重なり、人里でのご対面(!)も少なくありません。
 撮影地点への移動の折は、ラジオや笛など音が出るものをご持参ください。
 (旧常紋信号所付近は、「エゾシカ」「ヒグマ」のメッカです!!)
  なお、留辺蘂を経由せず、佐呂間町を経由(国道と道道)すると
 北見・遠軽間で留辺蘂経由より約20分ほど時間短縮が可能です。

2 6月下旬のオホーツクは、気温の差が少々(!)あります。
 フェーン現象で「大雪の山並み」からの熱風が吹けば、白滝、遠軽付近は30℃を超す高温になりますし
 (「白滝」は道内の最高気温がニュースになる場合、大抵登場する地点です)、
 オホーツク海高気圧が張り出せば、10℃にすらならないこともざらです。
 荷物になるかもしれませんが、天候状況によっては「暖かな服装」を必ずご用意ください。

3 沿線には、生田原と丸瀬布に温泉があります。
 生田原は駅前に「ノースキング」という温泉施設があり、ホテル並の宿泊施設があります。
 また、丸瀬布では「いこいの森」に「SL雨宮号」が保存されており、全長2`ほどの「SLの旅」が楽しめます。
 さらに留辺蘂から脚を伸ばせば(レンタカー等が必要でしょうが)、陸別に「りくべつ鉄道」(旧ふるさと銀河線の一部)
 が保存されており、「気動車の運転体験」ができます。

私は「乗り鉄」ばかりですが、何かのお役に立てばと思い記しました。
SL常紋号運転当日は、抜けるようなオホーツクブルーの青空を心から祈念いたします。
以上、沿線の遠軽町の高校に5年間勤務した経験を持つ「中年客車鉄ちゃん」でした。



投稿者 EF5841
投稿日 2008年 6月 5日(木)22時39分47秒
タイトル 日中線記念館
先般、仙コリ様の縄張りの「日中線記念館」へ行く機会がありました。
キ100及びオハフ61の保存状態が良好であることを報告します。



投稿者 EF5841
投稿日 2008年 6月 6日(金)00時13分46秒
タイトル 青大将運用
実弟の所有する資料(昭和34年3月時点)によると
【1レ つばめ】
「6001レ」 品川(8:25)>東京(8:33)
「1レ(つばめ)」東京(9:00)>大阪(16:30)
「回1レ」大阪(16:40)>塚口(16:52)
「回4001レ」塚口(17:00)>宮原操(17:14)
「単回(?)」宮原操( ? )>大阪( ? )
「26レ(いずも)」大阪(20:30)>東京(6:24)
「6026レ」東京( ? )>品川( ? )

【3レ はと】
「6003レ」 品川(11:47)>東京(11:55)
「3レ(はと)」東京(12:30)>大阪(20:00)
「回3レ」大阪(20:16)>塚口(20:30)
「回4003レ」塚口(20:38)>宮原操(20:51)
「単回(?)」宮原操( ? )>大阪( ? )
「533レ」大阪(23:10)>米原(1:41)
「328レ」米原(5:40)>沼津(13:08)
「330レ」沼津(14:45)>東京(17:43)
「回送 ? レ」東京( ? )>品川( ? )


【2レ つばめ】
「回2レ」宮原操(8:39)>大阪(8:50)
「2レ つばめ」大阪(9:00)>東京(16:30)
「回6002レ」東京(17:05)>大崎(17:34)ー大崎(17:36)>蛇窪(17:44)
「回6401レ」蛇窪(17:48)>品川(17:57)
「回6019レ」品川( ? )>東京( ? )
「19レ(月光)」東京(21:30)>大阪(8:10)
「回19レ」大阪( ? )> ?


【4レ はと】
「回4レ」宮原操(12:03)>大阪(12:14)
「4レ はと」大阪(12:30)>東京(20:00)
「回6004レ」東京(20:26)>品川(20:35)ー品川(21:28)>大崎(21:28)
ー大崎(21:40)>蛇窪(21:48)
「回6403レ」蛇窪(21:51)>品川(22:00)
以下不明

昭和31年11月19日から昭和34年2月までの間に、米原から330レを牽引した時代があったのか、
単に小生の記憶違いかなおも検証します。



投稿者 らん丸
投稿日 2008年 6月 6日(金)00時56分22秒
タイトル 最も長く優等列車に使われた客車は?
オハ35は旧型客車による急行運用が終わる昭和57年11月のダイヤ改正時まで使われていました
(「鳥海」の運用に入ることもあったし、ちょっと後に運行された臨時「いよ」にも使われました)・・・
今まで「最も長い期間優等列車に使われた客車」はオハ35(昭和14年〜57年までの43年間)ですが、
「同じ年代に製造された客車(昭和57年頃使われていたオハ35は戦後型だった)」としては
14系客車(昭和46年〜現在の37年間)でしょうか?



投稿者 雑魚
投稿日 2008年 6月 6日(金)10時55分19秒
タイトル 道東憧憬
▼ED76 109様
> 6月28・29日(土・日)にSL常紋号が運転されます

SL列車が現役で残っていた当時、撮影目的の愛好者の為に、常紋信号所で便宜的に
旅客扱いを行った事もあるそうですね。一方、常紋隧道と聞くと、悲惨な「タコ部屋
労働」を連想するのでした。

>「エゾシカ」は車を見ると突進してくることが多いので、慎重な運転が大切です。

地元で夜の山道を運転中、猪一家の突進を食った事があり、あのサイズですら物凄い
衝撃でした。ましてやエゾシカとなると………(^^)

> 佐呂間町を経由(国道と道道)すると(中略)約20分ほど時間短縮が可能です。

経路上に、一昨年秋の竜巻被害が報じられた地区がありますね。近接する栃木地区は、
明治から大正への改元の頃、渡良瀬遊水地の整備に伴い、地元を立ち退く事になった
栃木県旧谷中村の住民の入植に由来する地名だそうですね。徳島藩の淡路島における
庚午事変の顛末を描いた映画「北の零年」に通じるものを感じます。

石北線が遠軽・留辺蕊の前後で「Z字型」を描いているのは、札幌−網走の鉄道線が、
旧池北線に転用された「網走本線」を嚆矢とする名残りですね。もし網走への路線が、
先ず石北峠越えありきで形成されたなら、旧湧網線が石北線相当の路線として現存し、
北見の今日の発展は無かったかも知れませんね。なお、1980年の改正までは、網走で
上り夜行便を逃しても、後発の湧網線列車を使えば遠軽で追い着く構図だった様です。

湧網線は、名寄線の湧別支線と併せて「消化」しました。線路が三方向へと分岐する
中湧別駅やサロマ湖畔の様子は、実に印象的でした。その当時、まだ残っていた瀬棚・
胆振・富内・万字・幌内・広尾・士幌・白糠・相生・渚滑・羽幌・美幸・興浜南北の
各線は、結局試乗する機会も無い侭に廃止されてしまいました(寂)

> 天候状況によっては「暖かな服装」を必ずご用意ください。

八月に「利尻」を利用した際、旭川停車時は冷房だったのが、翌朝、稚内到着の頃は
暖房に切り替わっていましたっけ。北海道は広いですねぇ………

> 丸瀬布では「いこいの森」に「SL雨宮号」が保存されており、

かつての森林鉄道の経路上に所在するので止むを得ませんが、隣接駅間の距離が実に
30kmを越える上川〜上白滝の超閑散ダイヤを踏まえた丸瀬布駅の停車枠を勘案すると、
自家用車ないしレンタ・カーが無ければ、ちょっと敷居が高い印象は否めませんねぇ。
かつての軌道は沢伝いにかなり枝分かれしていた様で、当時の丸瀬布駅前は、木材の
一大集散地として、かなり賑わっていた事でしょう。

> 陸別に「りくべつ鉄道」(旧ふるさと銀河線の一部)が保存されており、

ふるさと銀河線と云えば、三セク如何後も「ハエタタキ」が相当区間、原型の形状で
残っていたのが印象的ですね。線路はともかく、それらの現況が、妙に気になります。

> 沿線の遠軽町の高校に5年間勤務した経験を持つ「中年客車鉄ちゃん」でした。

遠軽町の高校と聞くと「ガンダム」を連想する雑魚でした(^^)



投稿者 EF5841
投稿日 2008年 6月 6日(金)19時11分15秒
タイトル スハネ30
スハネ30も結構長く使用されたのではないでしょうか?
昭和6年 スハネ30000(形式改正によりスハネ31)> オハ34(昭和16年改造)
> スハネ30(昭和34年改造)> 昭和50年頃廃車
かなり検討していると思います。



投稿者 クモイ103
投稿日 2008年 6月 7日(土)17時23分46秒
タイトル Re:スハネ30
 2代目スハネ30の最長寿は、42年11ヶ月と3/4、わずかに43年に届きませんでした。
元スハネ31(スハネ30100の改番)ではなく、なんと初代スハネ30(スハネ30000の改番)のトップナンバーです。

昭和6年1月24日:新製 スハネ30000
昭和16年10月1日:称号改正により改番 スハネ30 1
昭和18年3月:改造 オハ34 29
昭和36年12月20日:改造 スハネ30 63
昭和49年1月18日:廃車
(出典:車両史編さん会発行「スハ32形(スハ32600)の一族」下巻)

 ちなみにこの車両、最後は小樽−釧路間普通列車423-424レ(のちの「からまつ」)に使用されていたようです。
優等列車に使用された期間としては、オハ34時代のブランクもありますから、もっと短かったでしょう。



投稿者 himeikanai
投稿日 2008年 6月 7日(土)22時47分39秒
タイトル Re:(5月31日・6月1日の投稿)
雑魚様
廣瀬正幸様

ご返事おそれいります。
俄かに残業が連続した上に、今日も仕事をしてきたので、ご挨拶が遅れて失礼いたしました。
会社PCでweb閲覧ならまだしも、bbs投稿は流石にご法度なもので。

小学生の頃、新聞に画餅の如く扱われていた都市交通?審議会答申?の地下鉄が、3月の横浜4号線、
この6月の東京13号線をもって遂に本格実現するとは・・・(その後とり下げた横浜2号線を除く)。
日本国内における公共事業としての鉄道整備の緩慢さと、年月の経過に感慨一夕であります。

当時、上り寝台特急を見に平沼橋駅に出かけてました。
横浜駅停車中の20系客車が見え、妙に深い屋根が印象的でした。
確か、相鉄の駅員さんに集札をいくつか戴いた憶えがあります。

また、武蔵小山といえば、中学の数学の先生がそこにお住まいで、毎日通勤されてました。
確か、使用済の定期券を戴いた憶えがあります。
この頃、大船工場に2号編成の供奉車が半ば捨て置かれており、何枚か写真を撮りました。


さて、今話題の1956.11改正関連で、京都附近について、気になっている点を一つ。
京都の現1番のりばは、昭和のころの1番のりばではない!点が忘れられ、
現1番のりばが、まるで戦前「燕」・戦後「つばめ」等の発着した上り線であるように思われている・・・。
現駅舎の新築の頃、旧1番線(これが昔からの旅客上り線の乗り場)が板で埋められ(その後、本工事で完全に埋没)、
旧2番線が新1番線(現在の1番のりば)となって、現在に至っています。
昔と今の写真を比べて見れば、1番のりばと2番のりばの間の線路の数が違うので
(4本から3本に減っている)簡単に判ります。
当時の日記がすぐ出てこないので変更された正確な日が出せず申し訳ありませんが、
その頃京都駅をよく利用していたため、実際に切替された後に驚いた憶えがあります。
(米原構内の配線変更・移転にはもっとビックリしました)



投稿者 きむたお
投稿日 2008年 6月 8日(日)18時14分57秒
タイトル 今朝の日本海・北陸
皆様こんにちは。
夏至近くにしては珍しく明るい朝でしたので(北陸地方は本当に天気が悪いのです)、
近所まで撮影&編成チェックに行ってまいりました。
いずれも富山駅停車直前で減速しているため、走りを撮った後にチェックしたものです。

4002レ(日本海)
EF81 46
オハネフ24 23
オハネ25 38
オハネ25 210(G)
オハネフ24 8
オハネ24 7
オハネ25 215(G)
オハネフ24 25
オロネ24 2
カニ24 511(G)


EF81は赤13号、客車は(G)が金帯、他は白帯。標記文字色や書体はチェックできませんでした。
以前の宮原車と異なり走行中メモが困難(形式によらず外観がばらばら)です。


3001レ(北陸)
EF81 149
・スハネフ14 20
・スハネ14 702
・オロネ14 701
・スハネ14 758
・スハネフ14 30
・スハネ14 752
 オハネ14 63
・スハネフ14 29


EF81は赤2号、客車は700台が金帯、他は白帯。
希少なオハネ14にGマークが付いていませんでした・・・。
Gマークは尾久所属を主張するシンボルだと思っています。

久々に眺めるとまた乗りたくなってきました(^^)

↓は今年1月に乗車した4003レのオロネ24 2(青森にて、'08/1/3)




投稿者 雑魚
投稿日 2008年 6月 8日(日)18時20分49秒
タイトル 米原駅
▼himeikanai様:
> 米原構内の配線変更・移転にはもっとビックリしました

東海道上り線が北陸線を跨ぐ現在の配線は、1957〜58年の滋賀県内の北陸線複線化に
備えた措置と見られ、1955年に改められていますね。いわゆる「高度経済成長期」の
初期とされるこの当時は、列車本数も増加の一途を辿り、平面分岐点におけるダイヤ
相互干渉の解消が、大きな課題になって来たものと思われます。

もっとも、幹線同士の分岐が平面のみで行われる光景には、ある種の威厳が感じられ、
その意味で、暫く並走した後に線路が分かれる岩沼の情景は、今なお「萌え」ですね。

東海道線と北陸線系統との主要分岐点は、現在、山科にシフトしていますね。方向別
複々線の東海道線における外側線と内側線を集約した湖西線が分れる完全立体方式は、
いかにも近代的ですが、北陸線下り特急の車窓展望DVDを見ると、これとは別個に、
東海道線の上り外側線から左側に分岐し、長等山隧道内で湖西線の下り線に合流する
線路を辿っています。幾何学的に、どの様な存在意義があるのか、と思うも、これは、
貨物列車を主たる対象とした勾配緩和の為の線路だそうですね。

滋賀県域における北陸線の電化状況を見ると、先ず、中央分水界越えとなる深坂隧道
経由の新線が開通した1957年に田村〜敦賀が交流電化。SL・DLによる継走措置が
行われた米原〜田村が直流電化されたのは1962年で、この間、電化網で見た北陸線は、
ある種「孤立状態」だった訳ですね。

その少し前の1959年に、黒磯駅で交直流の地上切替方式が採用されており、運転上の
拠点性が高い米原駅構内で同様の措置を講じれば、煩雑な継走措置を解消できた様に
思うのですが、米原駅構内において、何か物理的な制約があったのでしょうか。

1949年に板谷峠区間が直流電化された奥羽線についても、1968年の交流方式切替まで、
福島駅と構内外れの信号所の間の僅かな区間が上記と同様、継走対象区間だった様で、
東北線の交流電化が福島まで北上した1960年より後の数年間は、かなり煩雑な状態に
なっていたものと推察します。



 
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