倶楽部メモ(421)
平成20年 5月 6日〜 5月11日



投稿者 ヒゲ無し雷鳥
投稿日 2008年 5月 6日(火)23時51分10秒
タイトル レスお礼
>クモイ103様
早速のご回答有難うございます。カナ+軍番号だったのですね。
が、ナロネ10に関しては、残り8車種の表記が
マイネ・マイロネフ、マロネ、マロネフ、マロネロ37
スイネ30、オイネ31、スイロネフ38と国鉄表記のため
本ホームページの客車資料館を見て
ひょっとして木造車では、と思ってました。

ちなみに細則によればナロネ10の備品としては
布団20、緞帳40、吊網20、男枕20、梯子10、洋服掛20とありますので
片側5列の長手2段寝台では、と想像しています。



投稿者 廣瀬 正幸
投稿日 2008年 5月 7日(水)11時49分25秒
タイトル 思い出話
 3回目の投稿になります。よろしくお願いします。
 皆さんの投稿を読んでいるだけで、いつの間にか時間を忘れてしまいます。今日も小生の思い出話を書き込みます。
 何かのネタにして頂ければ幸いです。


1 昭和63年頃(?)から、北海道新冠町の国道沿いにスハ44の車体を利用した「ライダーハウス」が設置されています。
  おそらく、山線に使用されていた「函ハコ」の車体ではないかと思われます。
  バイクで来道の折は、ぜひお立ち寄りください。(新冠町の道の駅の近くです)

2 昭和47年4月に親類の結婚式の帰途、西鹿児島(鹿児島中央駅とは書きたくないですね)から東京まで
  「桜島」のG車(ナロ10かオロ10でしょうか)に「鉄」親父と一緒に乗りました。
  しかし、座席に備え付けの通路側のテーブルが裏返しでしか使えず、「鉄」親子と見抜いた東京車掌区のカレチさん
  (確か門司か下関で交代したはずです)が、「特急のお古なのですいませんねぇ。」と謝っていた記憶があります。

3 平成18年6月に札幌から大阪まで「トワイライト」のBコンパートの旅を3年ぶりに楽しみましたが、
  車内案内のスタートは「三都物語(谷村新司さんが歌い、歌詞も一部トワイライトバージョン)」ではなく、
  「いい日旅立ち」のインストルメンタルでした。
  JR西日本と谷村氏の契約が終了したからでしょうが、少し残念な気持ちがします。

   また、投稿します。



投稿者 雑魚
投稿日 2008年 5月 7日(水)17時54分59秒
タイトル 根室本線
▼bell様
> JR北海道のホームページによると廃止が決まってしまったようですね。

これら夜行便の利用者の主要乗降駅、および当該駅が所在する自治体の人口を見ると、
釧路(189千人)北見(129千人)網走(42千人)稚内(41千人)という具合で、正直、
寝台車込みの陣容で、今まで良くぞ運行して来た、と感じます。

競合する長距離バス路線が普及する迄は、これらの列車が、道央と地方の都市連絡で
大きな地位を占めて来ましたが、その感覚の継承が、いよいよ覚束なくなったという
印象を受けます。今後の夜間移動はバスの独壇場になるのでしょうけれど、厳寒期の
夜間にあって、通行障害の懸念は無いのでしょうかねぇ。

現在は帯広または釧路で折返しとなる根室線の優等列車体系ですが、石勝線開業前は、
急行「狩勝」でしたか、札幌〜根室を直通した様に記憶します。その名残りか、私が
北海道を訪れた80年代後半当時、釧路〜根室には「おおぞら」「まりも」に接続して、
急行「ノサップ」が設定されていましたが、釧路以遠は「根室本線」の名称に反して、
以前から「蚊帳の外」状態だったのでしょうか。

個人的には、観光需要が高まる繁忙期に限り「おおぞら」を、快速格下げで根室まで
延長する様な措置があっても良いと感じますが、そうなると車両運用が途端に煩雑に
なるのでしょう。せめて、2〜3両程度の付属編成を回転させる事で、何とかならない
ものかと妄想します(^^)



投稿者 雑魚
投稿日 2008年 5月 7日(水)18時11分22秒
タイトル 追分駅
▼クモイ103様
> 写真は 昭和 62(1987)年 5月 3日、追分にて上り急行「まりも」です。

我が初渡道は、その年の夏でした。午後の連絡船から最終「北斗」「まりも」と繋ぎ、
翌朝、座席車利用だった「まりも」の車窓から見た「初めての北海道」は、厚内から
延々と続く、太平洋岸の「本州離れ」した風景で実に印象深く、たまたま隣席にいた
何処かの可愛い女の子が、寝ぼけて肩を寄せ、この「擬似カップル状態」に「北海道
最高!!」と盛り上がったのでした(現在の女房と知り合う以前の事ですので 念の為)

その当時、池田駅で14系座席車編成が留置されているのを何度か見た記憶があります。
ワイン城に関連したイベント臨時便の折返し留置でしょうか。まさか、池北線用では
ないでしょうね(^^)標津線の廃止惜別運転に14系が動員された例もあり、道内では、
割と汎用性が高かった印象を受けます。

画像を御掲出の追分駅は、石勝線と室蘭線が交叉し、機関区に由来する広大な構内も
相まって、正に要衝の風格ですが、周辺市街自体は、合併後の安平町で人口一万弱と、
それほど大きい訳ではなく、どちらかというと、運転管理上の拠点という印象ですね。
現在、一部の特急が停車するのは、普通列車の本数が意外に少なく、これを補完する
意味合いもあるかと推察します。

追分付近における石勝線と室蘭線は、前者が単線、後者が複線と、一見して室蘭線の
優位性を錯覚しますね。後者の せめてもの面目躍如である「北斗星トマム・スキー」
あらため「北斗星トマム・サホロ」も、消滅してから、かれこれ十年ほど経つそうで、
肝心の「夢空間」も廃車とあっては、運用復活など、望むべくも無いのでしょう。

そもそも、スキー人口自体、この十数年間で半分以下に激減という状況ですからねぇ。
今となっては「シュプール号」の響きも懐かしく感じます。



投稿者 らん丸
投稿日 2008年 5月 7日(水)23時09分51秒
タイトル 軽量客車の製造コストについて
10系客車には御存知の様に
「何もかも新製したもの」:ナハ10・11、ナロ10、ナハネ10・11、オロネ10、ナロハネ10
「台枠だけ既存の物を流用」:オシ17
「台枠・台車・床下機器を流用」:オハネ17、オシ16、カニ38
と3種類の製造のされ方がありました。

正直な話、「まるっきりの新製」に対して「台枠のみ流用であとは新品部品を使う」と
「車体だけ新品で台枠・台車・床下機器は流用」はどれだけコストダウンが出来たのでしょうか?
投稿者のホームページ



投稿者 雪だるま
投稿日 2008年 5月 8日(木)21時53分51秒
タイトル 急行狩勝と追分
雑魚さま初めまして北海道の雪だるまともうします。
急行狩勝が14系になる前は釧路でハフ+ハ+マニ+オユが 根室まで普通列車で運転されていました。
メインは荷物と郵便の航送車だったと思います。

夜行バスは冬は大丈夫か?
冬季は高速道路が部分的に雪や事故で通行止めになりますので国道を走ることはよくあります。
今年は雪に埋まってました。

追分は蒸機が走っていた時はにぎやかでした。あのへんはバスが当時からあまり走っていませんでした。
室蘭線の普通列車のダイヤは当時に近いですね。気動車単行か二両は寂しいですが。
長々とすいませんでした。



投稿者 雑魚
投稿日 2008年 5月 9日(金)11時06分34秒
タイトル 偉大なる盲腸線
▼雪だるま様:
> 急行狩勝が14系になる前は釧路でハフ+ハ+マニ+オユが 根室まで普通列車で
> 運転されていました。メインは荷物と郵便の航送車だったと思います。

御教示、有難うございます。私が訪れた当時の根室駅が、広い側線群を擁する一方で、
旅客ホームは一面のみだった事から考えても、釧路以遠は、遠距離の旅客輸送体系上、
序でという位置付けだったのでしょうね。

> 国道を走ることはよくあります。

道央・道南を除いて、高速道の整備は、まだまだという印象ですが(道東道の夕張〜
トマムは2011年開通予定だそうで、石勝線にも少なからず影響しそうですね)道東を
レンタ・カーでドライブした時の感覚から、一部の時間帯を除けば、一般道経由でも、
比較的高目の表定速度を維持できそうですね。

> 気動車単行か二両は寂しいですが。

現在の室蘭線が全通した当時、全体の八割が石炭列車だったそうですから、只でさえ
貨物輸送優先だった戦前の国鉄にあって、産炭地は尚更だったのでしょう。その一方、
昭和初期に函館〜稚内で設定された急行は追分経由で、札幌度外視という大技でした。
1975〜85年に一部の便が筑豊線を経由した「あかつき」の博多度外視に通じるものを
感じますが、当時の札幌の拠点性は、現在のそれに比べて、小さかったのでしょうか。

石勝線夕張支線の「消化」で乗り合わせたのも、キハ40単行でした。唯一通過扱いの
途中駅が、特急との交換待ちから、実は停車時間が最長という訳の判らなさを含めて、
あの鈍足仕様の設計思想は謎だらけで、それを、これまた単行で定期急行「大雪」に
充てる感覚は、さすが北海道ならではの大らかさ、と感じたものです(^^)

石勝線開業以前、道内の鉄道網は、現在に比べるとまだまだ元気だったにも係わらず、
札沼線の末端区間の廃止(1972年)以後は、道央・道南と道東・道北の間が、函館線
一本のみという「超括れ状態」で、時刻表の巻頭地図を眺める度に、何やら不安感に
駆られたものです。

それから約30年、気がつけば、宗谷線も「偉大なる盲腸線」と化しました。かつては
札幌〜北見・網走の幹線として機能したちほく高原鉄道も廃止された現在、釧網線に
異変があれば(全廃の懸念は無いとしても、網走・釧路支庁界の野上峠を擁する緑〜
川湯温泉が、極端な閑散区間ですからねぇ)石北線や根室線も同様の状態となります。

その様に考えると、将来の連結構想を前提にした「興浜南・北線」等、今となっては
隔世の感も甚だしいですね。



投稿者 マロネロ38
投稿日 2008年 5月10日(土)20時02分10秒
タイトル 進駐軍番号
{髭ナシ雷鳥さん)

700-736(ナロ、オロ、スロ、スロハ)
801-806(アキ、オイ、ナミ、オミ)
901-912(チキ、ナハ、チホニ)
1001-1006(マイネ37)
110-1-1104(マイネ37)
1201-1209(マイネ38、マイネフ38)
1301-1311(マイロネ37、マイロネフ37、スイロネ37)
1401-1443(マロネ37)
1501-1510(マロネフ37、ナロネ20100)
等々
軍番号対照表が出てきました。(故浦原利穂さんのデーター)
3700番台までありますが、御必要なら管理人にコヒ°ーを郵送してスキャナーでアップ
していただきましょうか?



投稿者 ヒゲ無し雷鳥
投稿日 2008年 5月10日(土)23時19分49秒
タイトル レスお礼
>マロネロ38様
わざわざ郵送して頂いてまで、手間をおかけするのは恐縮してしまいます。
10系客車登場前の10番台車両がカナ+軍番号表記ということで疑問が氷解しました。
ご親切にありがとうございました。これからもよろしくお願い致します。



投稿者 仙コリ
投稿日 2008年 5月11日(日)09時24分36秒
タイトル ナロネ10?
ヒゲ無し雷鳥様のメモの「ナロネ10?」の疑問についてですが…

軍番号からすると、マロネロ38様もお書きになっているとおり軍番号1001〜1006となっている
マイネ37が該当し、定員もちょうど20名であり、当時存在した鋼製客車のなかで寝台定員が
20名という車両もマイネ37だけだと思うのですが、「マイネ」を「ナロネ」と写し間違える
事はないですよね?(元々の資料がという意味です)

となると木造客車かと考えるのですが、あいにく木造客車に関する資料はあまり所有していなく…
私のわかる範囲で記載すると、上2桁が10となる木造客車のロネは昭和3年の形式称号改定以降で

ナロネ10100(元ナロネ5110)
ナロネ10150(元ナロネ20560の一部・ナロネ20570)
ナロネ10170(元ナロネ20560の一部・ナロネ20580)

あたりが該当するのかと思いますが、各車両の寝台定員等の詳細はわかりません。
ちなみにこれらの車両は10000番台なので中形2軸ボギー客車に相当するのですが、
上記の車両の少し後に誕生した20000番台の大形2軸ボギー客車を見てみると

ナロネ20640・ナロネフ20660・ナロネフ20670等の寝台定員が20名となっています。

資料の発行年度がわかりませんが、軍番号表記があるとなると昭和20年代の中頃かと思われ、
これらの木造の優等客車はすでに荷物車等に改造されて存在しなかったと考えられるのですが、
木造客車について(寝台定員等についてや、いつ頃まで実在したかについて)詳しい方は
いらっしゃらないでしょうか。
投稿者のホームページ



投稿者 ヒゲ無し雷鳥
投稿日 2008年 5月11日(日)14時55分36秒
タイトル レスお礼
>仙コリ様
情報ありがとうございます。
ナロネ10000台という車両があったのですね。
ちなみに原文の時期ですが前後のメモから勘案するにS.21夏のようです。
またすぐ後のメモに「運用余剰2等車および2・3等車の取り扱いについて」
というメモがあり、ナロハ21、ホロハ82、オロ35他約50両が3等代用扱いと
なっている旨記されてました。



投稿者 コマ助
投稿日 2008年 5月11日(日)20時20分21秒
タイトル 四国のスハフ43について
いつも旧形客車の模型化の際、いろいろな過去ログを拝見させていただき参考にしておりますが、
カキコとしては初めてお目にかかります。よろしくお願いします。

さて、唐突ながら質問ですが、国鉄・旧客末期の四国におりましたスハフ43形、
そのうち末期まで残っていた15番の、客用扉にある窓の形について、ご存じの方が居られませんでしょうか。
現在も大井川で活躍している2と3は、いろんな方の写真から判明するのですが、
特に10番台の改造車は分からないままです。

ご教示いただければ幸いです。よろしくお願いします。



投稿者 クモイ103
投稿日 2008年 5月11日(日)22時21分41秒
タイトル Re:四国のスハフ43について
>コマ助様
 はじめまして。
 スハフ43 15が急行運用に就いていた頃の写真が、リンク先のサイト「客車空気調和装置資料室」にあります。
 この時点で既にドア窓がHゴム支持になっていますので、確証はありませんが、
 おそらく最後までこの形だったのでは?と思います。
 トップページのメニューから「客車写真資料室」→「西野寿章氏」→「座席車」と進んで下さい。
 なお、この写真には撮影年月日や場所が示されていませんが、
 隣に連結されたスロ54?に「グリーン車」の表示がある事から昭和44年5月以降であり、
 またスハフ43 15は昭和40年代を通じてずっと名ナコで「阿蘇」「天草」の1号車(指定席)に使用されており、
 写真のホーム上屋の装飾がどうも京都駅っぽい?こと、そして荷物車の連結が無いことから、
 これは上り「天草」で終点京都に到着した場面ではないかと思われます。
 よく見ると、車内で乗客が皆席を立って降車しようとしているように見えますね。

# コマ助様の「コマ」というのは、もしかして「四コマ」(小松島)のことでしょうか?



投稿者 コマ助
投稿日 2008年 5月11日(日)22時50分22秒
タイトル ありがとうございました
>クモイ103様

ご教示ありがとうございました。
10系座席車のような、扉窓も開閉可能なタイプか、このようなHゴム一周タイプか、はたまた原型か、
よく分からなかったもので、これを見ると末期とは異なりますが、Hゴム一周タイプから更に改造とは考えにくいので、
このまま末期まで活躍したのかもしれませんね。
トイレ窓は四国に渡ってから、見事に改造されてますね。

私事のことながら、丁寧な解説ありがとうございました。
ちなみに、私のHNの「コマ」は、残念ながら小松島ではなく、JR九州熊本工大前(現、崇城大学前)のコマなのです。
その大学出身なもので…。お騒がせしました。



 
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