倶楽部メモ(399)
平成20年 1月18日〜 1月21日



投稿者 雑魚
投稿日 2008年 1月18日(金)14時23分49秒
タイトル 静態保存候補地之四
▼クモイ 103様:
> その日1日だけトンネルと併存して運航されたのを最後に

この日は、鉄道で函館に向かい、連絡船で青森に戻る手合が多かったと記憶します。
三月下旬と、北国はまだまだ冷えるこの時期、徹夜待ちを厭わなかった「一番乗り
狙い」の行列がTVで紹介され、正に「鉄魂」を見る思いでした(^^)

> 同年 4月10日の瀬戸大橋開通に伴い

これを受け「一本列島」を標榜した記念オレンジ・カードが多々販売されましたね。
私も、東京駅地下「JR北海道プラザ」や、丸の内にあるJR四国の事務所などで、
度々、物色したものでした。

海峡線開業直後の 3月20日から大橋開通までの一箇月弱、本四備讃線は、茶屋町〜
児島で暫定開業しましたが、これは「瀬戸大橋博」の観客輸送に対応する為でした。
上記「青函博」ともども、博覧会興行が何かと持て囃された時代でした。その一方、
拠点性を喪失した宇野駅は、その後の移転再編で、実に簡便化されたのですね。

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妄想序でに「保存候補地」として、地元・鹿島鉄道跡も挙げて置きます(^^)現在、
小川高校下以遠の線路撤去は進んでいない様で(鉾田駅跡は、車両の留置状況から、
記念公園の整備が予想されます)線路が湖岸に最接近する画像(桃浦手前)付近の
線路を恒久保存し、往年の「パンダ号」風味を演出するのは 如何でしょうか(^^)

そういえば「パンダ号」牽引に供され、ここ数年間、常陸小川駅に放置されていた、
あの「カバさん」は、その後、どうなったのやら?




投稿者 てりてり
投稿日 2008年 1月18日(金)20時33分53秒
タイトル 長万部
 青函連絡船の序曲はこの駅にはじまりましょうか。優等列車が発車して
「只今より連絡船で本州方面にお越しのお客様に乗船名簿をお渡しいたします。
函館到着時、駅係員にお渡し下さい」と言う放送に胸が高鳴ったものです。
列車によっては大沼国定公園の案内放送があり函館駅到着を告げる最終放送で
「本日の連絡船は○○丸です。・・時の出航です。本日の津軽海峡は…」
と他には聞かれない放送に愈々北海道とお別れするのだな、と思ったものです。
 今は昔、時代は「昭和」と呼ばれていた頃のお話です。 それでは。



投稿者 懐古知新
投稿日 2008年 1月19日(土)00時16分29秒
タイトル 教えて下さい。種別サボ・愛称サボ
稚拙な質問で申し訳ありません。

客車(に限らずですが)の種別サボと愛称サボの、左右・両面のサボ受けへの挿入規程?
というものはあったのでしょうか?

例えば、「下り列車の進行方向から順に種別・愛称サボをセットすること」とか。

私はこれまで「向かって左が種別で右が愛称」と思い込んでいたのですが、当時の写真や模型!から、
どうやら何らかの規則があるんだ!と最近分かったヘタレです・・・

同じく、模型から分かったことなのですが、青大将以前の「つばめ」「はと」時代には
「特急」という種別サボはなかったのですね。(左右とも「つばめ」になってました)

こんなヘタレですが、この辺のところを何卒、ご教授下さいませんでしょうか?



投稿者 クモイ103
投稿日 2008年 1月19日(土)20時02分26秒
タイトル Re:静態保存候補地之参
>雑魚様

> ちなみに、この越中島貨物駅、よ〜く見ると、京葉線と線路が繋がっているのですね。
> どの様な「直通」があるのやら?

…あそこはですねー、保線機械用の横取りポイントなんです。
京葉下り線から左側にきれいに分岐する形なので、あそこが直通できたら面白いんですが(^^)。
 一時京葉線で通勤していたとき、毎日あそこを通りながら、
新金貨物線〜越中島貨物線を旅客化してそのまま東京駅へ乗り入れたら…なんて妄想に浸っていたのは私です(爆)。
でも、京葉線への合流でなくそのままかつての臨港貨物線のルートを復活させて、有明方面へ延伸する方が現実的では?
という考えもあります。どっちにしろ妄想なんですが(笑)。



投稿者 クモイ103
投稿日 2008年 1月19日(土)20時52分13秒
タイトル 「あの日」の青函ツアー
>てりてり様
 列車の車内放送で、たしかに接続する連絡船の船名まで案内していましたね。
桟橋の待合室にも、「○時○分出航 △△丸」と大書されていました。
確かに多くの客にとっては「何便に乗る」でなく「何丸に乗る」方が重要でしょうし、
船というものは人格があるかのように扱われますから、それが自然なのでしょうね。

 さて、昭和63(1988)年3月13日は歴史に残る青函トンネル開通の日。
早朝から興奮に包まれた青森駅の式典準備風景を横目に、
6:02発津軽線923Mのクロハ481グリーン室を奮発して蟹田へ向かいました。
駅から少し青森方に歩いたところでカメラを構え、トンネルを通過する下り旅客初列車「海峡1号」、
続く「日本海1号」、そして上り初列車「はつかり10号」などを次々に迎え撃ちます。
「海峡1号」と「はつかり10号」はそれぞれ所定6両のところ10両に増結、
「日本海1号」も付属を落とさずフル編成、いずれも堂々たる長編成の晴れ姿でした。
目の前には陸奥湾が広がり、今日で最後の連絡船が行き交う姿も遠く望めました。
 このあと「海峡3号」でトンネル初通過を果たし、
函館で少し船ちゃんをしてから札幌へ向かい、「北斗星6号」初列車で帰京。
この日最も衆目を集めた連絡船最終便には、ぢつわ立ち会っていない「邪道連絡船ファン」のクモイ103でした(笑)。
 写真は記念すべき一番列車3121レ快速「海峡1号」、瀬辺地−蟹田間にて。




投稿者 岩崎安房守義将
投稿日 2008年 1月19日(土)21時53分23秒
タイトル 妄想は時に・・・
雑魚様、更に御提案感謝致します。
 小生も鹿島鉄道跡地は考えましたが、会社と自治体と市民団体がちょっとすれ違いを起こして
今日の状況となった現地なもので、多分提案と同時に却下されそうです。
 或るファンが余計な動きをした事で、諸々崩れた曰く付きの場になってしまった処が悲しいのですが、
小川のカバさんは廃止決定直前に現地で解体されたと報告を受けております。
 まぁ妄想は妄想なのですが、時としてそんな妄想が現実になる事も・・・
横川機関区やトラストトレイン、C623機も原点は同じなので騒いだ者勝ちかな?と内々思っております。
 が、特定非営利活動法人の悲しさで、現実性皆無のものは事業として着手出来ませんし、或程度の裏付けも・・・
その第一が「設置場所」だったもので・・・
 さて、青函連絡船の話題に釣られてしまいますが、当時青函連絡船には「揺れ船」と「揺れない船」がありまして、
これがどの様な経緯で言われとなったかは不明なのですが、
確かに津軽丸型系列12隻中で「津軽」「松前」「摩周」「十和田」は「揺れない」と言われ
(航行時の季節や天候により違いはあるのでしょうが・・・小生の経験でも摩周と十和田は揺れなかったですね、
もっとも十和田は唯一の外洋航海設備を持っておりましたし・・・)
「揺れ船」としては「大雪」「石狩」「檜山」と良く聞きました。
 途中で客室部分を増設された「石狩」(三代目)と「檜山」は納得出来ますが、「大雪」は凪でも揺れましたね。
 汽車と同じで船もクセがあるのでしょう。
 また末期は別として、一時船によって設備が異なったり、食堂のメニューが若干異なったりとしたので
この「客務」的要素もあったと推測致します。
 国鉄末期の昭和61年11月まで上野駅案内所に勤務しておりましたが、
青函局にお願いして配船表を送って頂いておりました。
 週に一人は「連絡船、フネは何?」と御質問があったからなのですが、
配船変更の場合は原電(原文電報=ファクシミリ)でお知らせ頂いた記憶がございます。
投稿者のホームページ



投稿者 雑魚
投稿日 2008年 1月20日(日)13時23分38秒
タイトル 京葉線の謎
▼クモイ 103様:
> 新金貨物線〜越中島貨物線を旅客化してそのまま東京駅へ乗り入れたら…

やあ、御同慶(^^)しかし「グーグル」空撮映像を見ると、京葉線渡り線から越中島
貨物駅のスルーは、構内配線上、無理の様ですね。せめて、常磐線列車を上野以遠に
直通させる目的で、新金線を活用出来ないかと考えて見るも、これまた配線の制約上、
新金線から総武線の錦糸町方面へは、スルー出来ないそうですね。

御教示頂きました点のほか、もう一つ残る「京葉線の謎」が、新木場駅東側における
りんかい線との渡り線。同線がJR管轄なら、即、京葉線に直通すると思われますが、
埼京線に直通する手前、東京臨海高速鉄道の運賃集授を担保する為か、TDL関連の
団臨が時々直通する以外は、専ら遊休状態の様子。これだけの施設、今後の活用案や、
これ如何に?

> かつての臨港貨物線のルートを復活させて、有明方面へ延伸する方が現実的では?

現在の湾岸地区の状況を考えると、それも一興ですが(^^)都港湾局専用線跡の経路、
特に、春海橋東岸域の再開発の様子を見ると、鉄道の復活は望むべくもありませんね。

前出の画像には、建設中の「パーク・シティー豊洲」が映っていますが、着工までは、
運河東側に 100mほど、緑に囲まれ線路が残っており、その数年前まで、運河西側の
晴海埠頭倉庫街でも、半ばアスファルトに埋もれた線路が、はっきり残っていました。

春海橋でブルトレを「保存」するのは、些か荒唐無稽な話ですが、三井芦別鉄道跡の
炭山川橋梁の状況を考えると、先の「交通博物館」跡地における「演出」にも鑑みて、
機関車+客車一両程度は許容範囲か、とも感じるのでした(^^)




投稿者 雑魚
投稿日 2008年 1月20日(日)14時04分53秒
タイトル G車の思い出
▼クモイ 103様:
> 6:02発津軽線 923Mのクロハ481 グリーン室を奮発して蟹田へ向かいました。

私も、同列車のG室を利用した事があります。ただし、この時は渡道せず、蟹田から
三厩行に繋いで、三厩駅で拾ったタクシーで津軽中里に出るなど、限られた時間内に
多くの路線を「消化」するという趣旨でした。

あくまで特急の間合運用という事で、おしぼり利用は不可というのが印象的でしたね。
この運用は、今なお健在で、首都圏や「特急崩れ」以外で、定期列車が自由席G車を
擁する例は、長野総合車両センター関連の「あずさ」編成回送を兼用したと思われる、
松本〜長野の快速と、津軽線の事例だけでしょう。それにしても、下り一本に対して、
上りが「休日運休」込みで二本とは、これ如何に?

G車と云えば、JR発足直後の87年初夏、青函連絡船で唯一寝台を利用した渡道の際、
函館で繋いだ「北斗」で利用したG車は、導入後間もない「ハイデッカー」車でした。
当時、夜行連絡船に接続する「北斗」は、函館を四時半頃に発つ全車指定の速達便と、
五時頃に発つ一部自由席の緩行便の二本立で、私が利用した前者は確か、東室蘭まで
無停車でした。この時間帯の下り「北斗」は翌年以降「北斗星」に函館回転のハザを
併結する体制に移行したと記憶します。

さて、折角の「ハイデッカー」G車で不覚にも少なからず眠り込んだ私が、札幌から
繋いだのは「ヒルネ用」B寝台を組み込んだ、14系「天北」でした。この時の様子は、
以前言及したかと思いますが、名寄から空気輸送状態だった静かな客レに揺られつつ
眺めていた、夕刻迫る宗谷地方の荒涼たる台地の印象は、正に「最果て」の趣でした。

日が暮れた頃に到着した稚内で、夕食を済ませた後(今考えると、勿体無い話ですが)
折返し運用の「利尻」で札幌に向けてトンボ返りと「道内旅行=14系」の刷り込みが
成された時期でした。それゆえ未だに、利尻富士の雄姿を拝んだ事が無い雑魚でした。



投稿者 雑魚
投稿日 2008年 1月20日(日)14時45分18秒
タイトル 小川のカバさん
▼岩崎安房守義将様:
> 或るファンが余計な動きをした事で、諸々崩れた曰く付きの場になってしまった処

地元の私すら知らない「事情」が、色々あった様ですね。それはさて置き、この種の
存廃論議が起こると、往々にして情緒的見地に基づいた存続擁護論が、利用圏外から
聞かれるものですが、日立電鉄・鹿島鉄道と、相次ぐローカル私鉄の廃止を、間近で
見た立場としては、かかる動きを実効せしめる絶対要件として、明確な採算性ないし
需要創出構想の呈示を伴う強力なリーダーシップが発揮されないと、結局は一過性の
キャンペーンに終始すると感じます。

また「受け皿」候補と目された茨城県に対して税金を納める立場とすれば、いわゆる
観光路線ではない以上、情緒性がどうあれ、沿線住民が、それほど必要としなければ、
如何ともし難い、という諦念ムードがあったのも事実でしょうね。

> 小川のカバさんは廃止決定直前に現地で解体されたと報告を受けております。

然様でしたか。あの面構え、ぜひ鉾田駅跡に「疎開」させたい代物でした。

> 横川機関区やトラストトレイン、C62 3機も原点は同じなので騒いだ者勝ちかな?

旅行好きの延長線上、あちこち程々に「つまみ食い」というスタイルでの鉄道趣味が
身上の私にとって、特定事物に一点集中的に係わる、ある種「ボランティア精神」は、
襟を正す様な話ですね。三連投、失礼しました。




投稿者 ED12
投稿日 2008年 1月20日(日)14時58分9秒
タイトル 越中島貨物線の夢
越中島貨物線が話題になっておりますが、東西交通網の不備に泣いているK区東部住民としては
越中島貨物線を早期に旅客線化し、亀戸ー新木場間に「LRV」を配置すべきと考えます。
K区では一度専門家による調査実施までしていますが、その後は凍結状態です。
インド洋無料給油分の費用で実現できそうです。
給電を東京湾の風力発電利用などすれば、“地球環境”にもアピールできる事業になるでしょう。



投稿者 クモイ103
投稿日 2008年 1月20日(日)20時37分9秒
タイトル Re:京葉線の謎
>雑魚様
> 新木場駅東側におけるりんかい線との渡り線。

 TDL関連の団臨の直通があるとは知りませんでした(汗)。
確かにこの“渡り線”、実際の利用度に比べて立派すぎますが、
それもそのはず、そもそもこれが京葉線本来の当初計画における本線ですからね。
りんかい線が新木場−東京テレポート間で部分開業した当初、車両の検修をJR京葉運輸区に委託していた折には、
そこそこ利用されていたと思われますが、現在はご指摘のように
> 埼京線に直通する手前、東京臨海高速鉄道の運賃集授を担保する
必要があり、定期列車の本格的な直通はまずあり得ないでしょう。
さりとて単線化などするのも余計なコストがかかりますから、
一種の「トマソン物件」的なものとして残り続けるのではないでしょうか。

 直接の関係はありませんが、去就が気になる都心の「廃線跡」を昨日見てきましたので画像を添付します。
上を覆っていた建家はすでに撤去され、かつての賑わいが嘘のように荒涼としたたたずまいでした。
この上に鎮座していた車両たちは、今は大宮の地で毎日大入りの見学客に囲まれていることでしょう。




投稿者 クモイ103
投稿日 2008年 1月20日(日)21時14分32秒
タイトル 津軽線
>雑魚様
> それにしても、下り一本に対して、
> 上りが「休日運休」込みで二本とは、これ如何に?

 1975年頃の時刻表を見ると、現在の下り初列車のスジにあたる923D三厩行きの前にもう1本、
休日運休の「921レ」蟹田行きがありました。
私の乗った1988年当時、下り初列車は1975年の923Dのスジを受け継ぐ「923M」であり「921」は欠番。
現在も初発は「323M」であり「321」が無いということは、つまりそういうことですよね(笑)。
 なお、1988年3月改正当時、夕方にも1往復のG車付き普通列車がなんと583系9連で運転されており、
これも別の機会に乗りました。
この時は一部で有名?な竜飛岬の階段国道を訪れ、その帰りに蟹田から青森まで乗ったのが、
私の唯一のサロ581乗車体験です(爆)。

 さて、ここは「客車倶楽部」ですからね、やっぱり客レで締めましょう。
前々書き込みの画像の続き、青函トンネルに向かう「日本海1号」初列車です。
変な棒がかかっていますが、足場の関係でやむを得ずと言い訳(笑)。




投稿者 次郎
投稿日 2008年 1月20日(日)21時35分8秒
タイトル なは・あかつきに続いて
はじめまして。次郎と申します。いつもこのサイトの情報を拝見させてもらってます。
さて、なは・あかつきの前にどうやら夢空間が引退となってしまうようです…。
クラブツーリズムの四季の華の中にある項目に「さようなら!夢空間北斗星」というのを見つけました。
上野発2月29日が最終運行となっています。
豪華寝台も終焉の時なのでしょうか…?実に寂しいものです。



投稿者 雑魚
投稿日 2008年 1月21日(月)10時03分50秒
タイトル 夢空間、汝もか!!
▼次郎様:
>「さようなら!夢空間北斗星」というのを見つけました。

あらら「2008年 3月引退決定」とありますね。三月改正の「北斗星」削減に対応した
措置でしょうか。この御時世、潜在需要云々以前に、運行管理を動力車で一元化して
コスト削減を図ると云う趣旨が、いよいよ徹底されて来たかな、とも感じます。

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ここまで来ると、岩崎安房守様の趣旨から逸脱した観がありますが(^^)ある程度の
編成を収容し得る遊休区画を持つ駅として、茨城交通の阿字ヶ浦を挙げて置きませう。
本線から切り離された側線には、貴重な「羽幌炭鉱色」を纏った気動車が、朽ちるに
任せた状態で放置され、何とかならないか、とも思いますが、廃止も取り沙汰された
湊線の移管存続が漸く決定した折、そこまで顧みる余裕は、無いのかも知れませんね。




 
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