倶楽部メモ(375)
平成19年 8月14日〜 8月16日


投稿者 SAIPAN
投稿日 2007年 8月14日(火)01時25分37秒
タイトル ビアガーデン目白倶楽部
車両ですが、本当に解体でしょうか?
閉店後に撤去を目撃し、業者に聞いたところ、東北の方に持っていくと聞きました。
車両を切断(現地解体)した記憶はありませんでした。
私の記憶違いでしたでしょうか?
ご存知のかたがいらっしゃいましたら教えて頂ければと思います。



投稿者 雑魚
投稿日 2007年 8月14日(火)14時05分4秒
タイトル 下関始発 「おき」
本日は栃木県矢板市辺りで「北斗星92号」を撮る予定でしたが、昨晩、御盆の入りの
挨拶回りの際、行く先々で宴会となり、見事轟沈してしまいました(^^)そう言えば、
今週は仙台の 583系が、管理人様の地元で快速運用に入っている様ですね。これまた
食指が動く代物ですが、御盆の時期に会津まで遠征するのは自殺行為かなぁ(^^)

▼青列車様:
> 当時は地元民も、近道として鉄道トンネルをくぐることは珍しくない事でした

………とは申せ、天下の大動脈・山陽線ですからね。スリル&サスペンスも甚だしい
危険行為との認識は、重々あった事と思います。

> 此処にクルマを停めてそれらを利用する人の姿も見られます。

大島大橋の規模を考えると、これはこれで結構歩くのではないかと想像します。一方、
橋上から柳井側はどの様な景色なのか。鉄道写真で紹介された験しが無いので、多分
絵になり難い構図なのかと想像しますが、少し気になりますね。

> 現在は周南市(旧徳山市)在住です。

新幹線の駅名にもなった「徳山」の市名を改めるに際して、地元では、色々と葛藤が
あったそうですね。東北新幹線古川駅(宮城県古川市あらため大崎市)と同様、少し
勿体無い気もしますが、その一方、合成感覚に基く新幹線駅名を援用した、栃木県の
黒磯市あらため那須塩原市の例もあり、地名の変遷事例も色々あると感じます。

青列車様の地元より少し西になりますが、小郡〜下関では、1996〜97年の一年間のみ、
朝方 キハ181系も貴重な被写体となりました。これは「おき」が 2号のみ下関始発で
設定され、その為の車両送り込みとして小郡→下関に快速が設定された事によります。
私も、鳥取に赴く際、わざわざ下関を迂回して「おき 2号」を全区間乗り通した事が
ありますが、下関→小郡は空気輸送で、他の区間も、マトモに混雑したのは小郡から
津和野くらいのものでした(^^)



投稿者 赤まんと
投稿日 2007年 8月14日(火)16時38分1秒
タイトル 見事頭から抜け落ちました
昨日の「北斗星91号」すっかり頭から抜け落ち、あっさり編成記録逃しました。
今日の4号はちゃんと定時に上ってきて、サイクリング中に押さえることに成功しました。
普通の流れ星86号機が担当でした。
さて、仮設住宅入居が始まったとはいえ、被災地はまだまだ復興、交通の復旧には時間がかかりそうです。
尾久で待機中の「北陸」もいつ動くかわからない状態です。
が、尾久の職員は運転しないからと、放置しているわけではありません。
定期的に洗浄線へ引き上げ、洗車もしていますし、スハネフのエンジンチェックも行っています。
なにより、先日、編成差し替えが行われました。
1号車からスハネフ14 31が外され、代わって先月5年8ヶ月ぶりに秋田総合センターで全検出場を果たした
スハネフ14 32が入り、6号車はスハネ14 758が外れ、スハネ14 752に代わりました。
運休から1ヶ月経ちますが、ちゃんと手入れがされており、すぐにでも再開に対応できるようになっています。
復旧、復興、1日も早く進むことを祈るばかりです...。



投稿者 クモイ103
投稿日 2007年 8月15日(水)09時57分55秒
タイトル 大島航路残像
 遅レスですが、連絡船担当(爆)のクモイ103です(^^;。
 雑魚様のコメントの通り、国鉄大島航路は、昭和21(1946)年に山口県から国に移管された航路です。
昭和12(1937)年に開設以来、県道の一部として無料で運航していたものが、
戦後の需要急増に加えて財政難・燃料の入手難などのためこれを維持できず、
県が国に要請して国鉄に引き取ってもらいました。
いわば県道から国道に昇格(?)したわけですが、さすがに無料というわけにはいかなかった様です。
(参考文献:「鉄道連絡船100年の航跡」古川達郎著・昭和63年5月 成山堂書店刊)

 東海道ブルトレの食堂車営業廃止が迫った1993年2月、その乗り納めを兼ねて、屋代島(周防大島)を訪ねました。
JRバス大島営業所のすぐ近く、大畠瀬戸を望む一角にひっそりと佇む記念碑が、
かつてここに国鉄小松港桟橋が存在した名残をとどめています。




投稿者 クモイ103
投稿日 2007年 8月15日(水)10時00分10秒
タイトル 大島航路残像−2
 小松港からの帰り道、大畠駅へ向かうバスから撮ったものです。窓の反射でお見苦しい点ご容赦m(_ _)m。
大島大橋の上ではなかったかもしれませんが、青列車様お得意の有名俯瞰ポイントとは逆方向の風景です。
 画面右寄りに大畠駅の跨線橋が見えます。その左の方にある桟橋のようなものが、国鉄大畠桟橋の名残でしょうか。




投稿者 クモイ103
投稿日 2007年 8月15日(水)10時28分32秒
タイトル 富士の食堂車
 せっかく写真のフォルダを開いたついでに、行きに乗った「富士」の食堂車オシ24 102の模様を貼ります。
乗車日は1993年2月11日、1ヶ月後に営業休止を控えてお名残乗車が多いかと思いましたが、この通り。
その時のメニューで一番高いビーフシチューセット2000円也を奮発しました(^^)。ビール中瓶は510円でした。
 あれからもう14年も経ったんですね…

(追記)前書き込みのバスからの写真は、当時のメモを確認したところ、やはり大島大橋上からのものでした。




投稿者 岩崎安房守義将
投稿日 2007年 8月15日(水)12時46分12秒
タイトル 戦争は技術を衰退させた
 小樽築港機関区でSL修繕の神々と呼ばれたOB氏が小生に語った「忘れられない」逸話があります。
 国鉄最小の蒸機・B20機は「戦争が技術を衰退させた証明」である、と。
 それまで高圧で効率的なワルシャート式弁装置過熱式機関車が改良を重ねられ、エネルギー効率の悪い蒸機が
段々改善されていたのに「あれ、スティフェンソン(スチーブンソン=英国式とも)で飽和(式)なんだわ、
折角先達達が積み重ねて来た蒸機技術が済し崩しにされたんだわ。
戦争が技術の向上になるとかいうべゃ、それは違う。」と。
 更に「C62は戦争の尻拭いで出来たもの、本来は甲種幹線の平坦地で高速列車を引っ張る機関車なんだわ、
それを軸重軽減工事して重連で走らせるなんてな、戦後復興への情熱が山線ロクニ重連を実現したんだ。」とも・・・
 鉄道連隊から大陸へ出征を体験した氏の言葉は重いものがあります。
 戦前のレベルに国鉄が「戻る」のは昭和30年代の事、15年も足踏みしたと単純に言えますが、
その善し悪しに関わらず、民衆の心に反する環境は文化の敵にしかなり得ません。
 戦後62年は日本のお話で、悲しい事に今もこの惑星では戦争は続いています。
投稿者のホームページ



投稿者 雑魚
投稿日 2007年 8月15日(水)13時14分49秒
タイトル 食堂車
▼クモイ103様:
大島大橋からの画像、有難うございます。こうして見ると、なかなか良い風景ですね。

ところでこの「ビーフ・シチュー・セット」ですが、私が最晩年に利用した時は確か、
丼物とレトルト・カレーのみだった様な記憶があり、もし、見落としていたとすれば、
ちと悔やまれる話ですね(^^)

鉄道の食堂車といえば、1980年代半ば頃の新幹線のレシートでは、列車名も印刷され、
旅のちょっとした「証明書」にもなったのでした(^^)

予約無しで乗り込んだ「北斗星」の「グランシャリオ」では、パブ・タイムに何とか
利用させて貰いましたが、量・値段ともに中途半端な感が否めませんでした。やはり
対・北海道便には「海峡ラーメン」は欠かせません(^^)



投稿者 赤まんと
投稿日 2007年 8月15日(水)17時47分47秒
タイトル 昨日の「北斗星91号」
昨夜はうまく線路際で「北斗星91号」の編成記録を押さえることができました。
上り211系15連にカブられそうで、ヒヤヒヤでしたが、尾久駅の外れまで自転車を飛ばし、
ノロノロ運転で通過するところを見ることができました。
なんと、牽引機は貨物用の85号機があたっており、これにはびっくり。
春先に検査での不足から、青森の81の代わりに「あけぼの」の先頭に立ちましたが、今回は故障でも起きたのか...
とはいえ、「北斗星」用81のネグラですから、当日牽引予定機に不具合が起きても、
いかようにでも対応できそうですが...。
編成そのものは6日の81号と基本的には変わらず、10号車のオロハネ24に差し替えがあったのみ。
3275本目の記録、なかなか貴重な内容になりました。
あとは、機会をつくって実際に乗るのみ!です。



投稿者 ED12
投稿日 2007年 8月15日(水)21時50分46秒
タイトル 運転室内色
客車を引っ張る機関車。その機関車の「運転室内色」ですが、蒸機だと薄グリーン色が一般的のようです。
では電関やヂーゼル機関車の運転室の「色」は戦前・戦後でどんな色だったのでしょうか。
どなたかご存知ありませんでしょうか。



投稿者 クモイ103
投稿日 2007年 8月15日(水)23時51分54秒
タイトル Re:食堂車
>雑魚様
 メニュー書きも撮ってありますのでお目にかけます。もしかしたら、この後グレードダウンしていったのでしょうか?

 新幹線の食堂車は一時期よく利用しました。レシートはだいたいとってある筈ですが、どこへ仕舞ったやら…(汗)。
 グランシャリオに海峡ラーメン、いいですね(^^)。
青函トンネル通過に合わせて深夜に営業したら…なんて妄想してしまいます(爆)。
 青函連絡船の食堂は広々としていて、むかし有名デパートに必ずあった“大食堂”のようでした。
初利用は昭和57(1982)年3月、夜の上り6便大雪丸で、いかさし定食をとったのを覚えています。

 新幹線と言えば、バブル期の平成元(1989)年6月、
当時新進気鋭だった「グランドひかり」の2階建て食堂車を利用しました。
0系の食堂車が多数活躍している中で、JR西日本が満を持して送り出した新形食堂車は、
コース料理が中心の本格高級志向。
お値段もそれなりのものばかり並んでいました。
 隣のテーブルの人がステーキか何かを注文したようで、ウェイトレスがメインディッシュをワゴンで運んできて、
その場で皿に盛りつけるという凝りようでした。でもその手つきはたどたどしかったのがご愛敬。
 私の注文は「ブルゴーニュ風ビーフシチュー・ヌードル添え」のセットで、コースものではないけれど\2500ナリ、
もっと高いメニューもずらりと並んでいたような気がします。
食堂車の定番メニューの一つだったビーフシチューですが、その後バブルがはじけると、
一見似たようなものでも少し値段が下がっていくのを見て、一抹の寂しさを覚えたものでした(^^;。




投稿者 雑魚
投稿日 2007年 8月16日(木)12時49分58秒
タイトル 水戸駅名物
▼クモイ103様:
> もしかしたら、この後グレードダウンしていったのでしょうか?

なかなか豪華なライン・ナップですね。こうして見ると私が遭遇したのは「最晩年の
更なる簡略版」だった可能性を感じます。うろ覚えですが、当時の鉄道誌の記事でも、
メニューが丼物など、かなり限られた旨の言及がありましたし………

> 青函トンネル通過に合わせて深夜に営業したら…なんて妄想してしまいます

函館以北の下り便では、朝食に「森のイカめし」というのはいかが(^^)学生時代の
道内旅行では「まりも」「大雪」「利尻」で札幌入りした後に、羊ヶ丘で朝食という
大技も何度かありましたから(^^)それを考えれば、上記の如しは許容範囲でしょう。

> むかし有名デパートに必ずあった“大食堂”のようでした。

まだ、スーパーと百貨店の間に厳然たる格の違いがあった頃、こうした大食堂こそが
厚顔のブ少年だった私にとっては、百貨店のステイタスそのものでしたね。いずれも
食券制で、鉄道切符の硬券に通じる雰囲気に「鉄心」も刺激されたものでした(^^)

> 当時新進気鋭だった「グランドひかり」の2階建て食堂車を利用しました。

私も一度だけ利用した事があります。一階の厨房から、業務用エレベーターで食事を
出す場面が妙に印象的でしたね。これより以前の食堂車というと、夕方の東京駅では、
指定券を持たず、さりとて自由席への着席も覚束なそうな、ビジネスマン風の一団が、
コーヒーだけで粘ったろか、という雰囲気で、食堂車の停車位置付近で、長い行列を
作っていましたね。

画像は最近、水戸駅ビルで頂いた定食(名称失念)です。東京から出張して来た方と
食事をする事になり「これ、いかにも茨城っぽくて良いですね」の一言で決定。近年、
納豆も市民権が拡大している様で、こうしたメニューも出て来るのでしょう。生粋の
茨城人民である私にとっても「五つ星」級の美味しさでした。



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