倶楽部メモ(325)
平成18年 5月27日〜 6月 2日


投稿者 EF5841
投稿日 5月27日(土)23時58分26秒
タイトル C5343(流線)
C5343(流線) 当時の看板列車の全てを牽引しました。
富士 名古屋ー京都(下り)
燕  神戸ー名古屋(上り)
17列車 京都ー神戸(下り)
ちなみに神戸から京都(梅小路)への戻りはローカルを牽引しました。
燕の逢坂山の補機はC11です。



投稿者 旧客
投稿日 5月28日(日)18時03分49秒
タイトル スハ32系
はじめまして。 旧客と申します。

話題の流れが変わってしまいますが、
皆さんは、鉄道ピクトリアル2006年7月号のスハ32系(T)の特集をご覧になりましたか?
1976年頃の写真で、スハ32系のみの11両編成というのがあったのですね。 
牽引機がED71形というのが、何とも渋い組み合わせですね。 
ほかに、スハ32の台車をTR11に交換したオハ56という形式が存在しましたが、
そのうちの26・27番は台車交換後、約2、3ヶ月位で廃車というのが何とも不思議に思いました。 
最初から予備車扱いだったのでしょうか?


投稿者 オユ11
投稿日 5月28日(日)18時08分44秒
タイトル 電暖撤去車について
 皆さん、はじめまして。
 電暖設置車が異動した場合、ほとんどはそのままにしておきますが、
北海道や四国など運用が島内だけに限られる地区では、わずかですが電暖設備を撤去した例があります。
 北海道ではスユニ602043が撤去して43になりました。
四国の場合は形式も変わってスユ132031がオユ1231になりました。
どちらも昭和51年度のことです。
 このほか四国には50年代前半にオハ472000番代が10両ほど配属になり、
検修の邪魔になるとの理由で撤去されたようですが、番号はそのままだったという話があります。


投稿者 EF5841
投稿日 5月28日(日)18時38分57秒
タイトル Re:スハ32系
スハ32系の11両編成 おそらく 125列車 122列車かと思います。

特に125列車では、一日の稼ぎを終えた鉢巻姿の男衆が酒盛りに余念がありませんでしたね。

EF57のデッキ上に上がる猛者もおりました。


投稿者 EF5841
投稿日 5月28日(日)18時44分20秒
タイトル 電暖車
模型の世界では、電暖車 2000番代を名乗りながらスハ43系やオハ61系等の場合、
電暖用トランス、ショップからパーツが出されているにも拘らず付けている方は少ないですね。
目立つものですから極力付けましょう。



投稿者 103列車機関士
投稿日 5月28日(日)20時42分45秒
タイトル ドキ!
EF5841殿こんにちは
電暖トランス、以後心がけます!
以前ご指摘がありました客車の向きも調べて運転会でも気をつけてます
金田茂裕氏の「形式別国鉄の蒸気機関車」の件ありがとう御座います
これはやはり現在では入手難の書物ですよね!オークションか古本を探してみます

そういえば赤羽の中古模型店で西尾克三郎氏の「記録写真 蒸気機関車」が有ったのですが
定価の3倍なので泣く泣くあきらめました!
出た当時中学生で買えず、大人になってもあきらめております(涙)



投稿者 JIN
投稿日 5月28日(日)22時21分30秒
タイトル りんつば
臨時「燕」の編成ですが、昭和6年〜7年は
スハニ35700(31)+スハ32800(32)×3+スシ37740(37)+スロ30800(32)+スハフ34200(32)

でしたが昭和9年になるとスハが増えて、その代わり最後尾がオロフ32になっていました。
これ以降は「臨時燕」ではなく「不定期燕」です。
スハニ35700(31)+スハ32800(32)×4+スシ37800(37)+スロフ31050(オロフ32)

昭和10年になりますと一等が連結されます。
スハニ35700(31)+スハ32800(32)×4+スシ37740(37)+スロ30800(32)+マイネロフ37260(32)

EF58 41さんの書かれた編成は
スハニ31、スハ32、スハ32、スハ32、、スハ32、スロ34、スシ37、スイロネフ37 
(形式は便宜的に昭和16年改正後で標記)となっていますが、
スロ34は下等客の上等車輛通り抜け禁止の原則からいって、食堂車の後ろにくると思われます。
スイロネフ37はマイネロフの誤記と思われますが、
マイロネフ37280(37)とすると、これは17列車に増結する敦賀行き用車輛になります。
マイネロフ37260は一等寝台と二等座席の組み合わせでした。
何故昼行列車に一等寝台車が連結されたかというと、
一等客には要人が多いのでセキュリティの為に個室が必要だったからです。
そのため、昼行用の一等展望車スイテ37020、37030、37050には個室が設置されていました。
逆に夜行区間のある「富士」用展望車スイテ37000、37040、マイテ37010に個室がありません。

牽引機のC51ですが247号機だけは何故か長らく給水温め器がなく、「燕」から退いてから本省式が付いたようです。

C53は「燕」受け持ちの沼津機関庫では整備が旨く出来なかったこと、
御召機がC51牽引だったように信頼感からC51牽引となったようです。
ただし、「櫻」や13列車では試験的に牽引したという記録があります。
丹那トンネル開通後は沼津以降がC53牽引になりました。


投稿者 ゴボウ
投稿日 5月29日(月)00時03分57秒
タイトル
ゴボウです。皆様ご教示ありがとうございます。

使わないものを半ばオモリ同然にぶら下げてるのと、手間暇かけて取り外すのと、どっちが不経済ですかね。

投稿者 雑魚
投稿日 5月29日(月)16時05分33秒
タイトル 宗谷線急行
> 往年の急行天北も利尻と共通運用でハネが付いていたのを思い出しました。

気動車化される直前の80年代後半における宗谷線の急行は「礼文」を除き、14系で
統一され「利尻」と共通運用を組む下り「天北」および上り「宗谷」が、御指摘の
ハネ連結編成でした。私は下り「天北」で利用したのですが、名寄を出ると車内は
空気輸送。かつて、町営軌道が接続していた小頓別駅では、天北線としては破格の
長大編成の大半がホームからハミ出ていたのが御愛嬌でしたね(^^)浜頓別を出て
荒涼とした大地を淡々と走る中、静まり返った車内は、車販の御姉さんの声だけが
空しく響いていましたっけ。

その晩は「利尻」で折り返した為、日本海越しに利尻富士を遠望するという、あの
有名な風景には、未だ御目にかかっていないのです。北海道では最も見たい光景の
ひとつなのですが………

なお、いかにも最果てという語感の「天北」は「手塩」「北見」の合造語だそうで、
ここでいう「北見」とは、1869年の「国郡設置」で策定された旧国名。守備範囲は、
網走から稚内まで及ぶ広大なもので、石北線沿線にある「北見市」は、旧北見国で
市制施行が最も早かった為、市名に旧国名を冠する事になったのだそうです。

これらの急行は、その後の気動車時代を含め、旭川において、下り便が後続特急を
待ち合わせたり、上り便が特急を先発させるなど、鷹揚な印象でしたね。こうした
事例は当時、柏崎における「赤倉」や八代における「くまがわ」でも見られました。
夜行では、沼津で、上り「銀河」が上り「出雲」を退避していましたっけ。


投稿者 車掌@仙コリ
投稿日 5月29日(月)23時59分33秒
タイトル 出雲用車両解体
本日、所用で郡山総合車両センター(元国鉄郡山工場)の脇を通ったところ、解体線に24系車両を発見しました。
写真のオハネフ25 203を始め、確認できただけで解体線に3両、工場内に5両の金帯編成がいて、
車番や外観から先日廃止となってしまった客車「出雲」用の車両達のようです。
すでに一部車両は解体が始まっていましたので、残念ながら数日中には姿を消してしまうものと思われます。
長らくのお務めご苦労様でした。「出雲」用車両達に合掌。


投稿者 雑魚
投稿日 5月31日(水)08時55分4秒
タイトル 「出雲」 惜別
> 残念ながら数日中には姿を消してしまうものと思われます。

嗚呼、金帯車が………。長年の使命を全うして「神話の国」に召されたのでしょうか。
郡山工場の出入り情報が判っていれば、惜別を兼ね時間帯次第では回送運用を撮りに
白河辺りに遠征したのですけどね。何はともあれ、本当に御疲れ様でした。その一方、
廃止の噂も仄聞された「エルム」は、八月に運用がある様子で一安心。しかし、その
陣容たるや、ますます先細りの印象です。

ところで、別掲示板で「白とピンクの変な客車を高崎で見た」という話がありまして、
JR西日本の 14系200番台あたりが遠征しているのでしょうか。推測通りであるなら、
結構、珍しい事例ではないかと感じます。


投稿者 てりてり
投稿日 5月31日(水)19時59分28秒
タイトル 祈り
 遂に「出雲」の寝台車達も解体線の露と消えていくのですね。
そう言えば昨年、旧「はやぶさ」用の客車が熊本県は川尻駅にあるとの情報を得て、見に行った事がありました。
二列に合計18両が無造作に留置されている姿を見つけた時は正直声が出ませんでした。
 その後少しずつ小倉工場へ廃回され、私達の前から姿を消して行きました。
と思ったら「彗星」廃止で「なは」用の座席車が無くなり、
確か今日では「はやぶさ」「富士」用の客車は在籍車両は30余両とか。
機関車も先日長らく任を解かれた旅客所属のED76−61・87号機が留置先の大分から姿を消していったと聞き及んでおります。
機関車・客車共に三途の川を
渡る速度が加速して行くのは、時代とは言えど寂しさが募ります。
 あまり良い噂の無い客車列車ですが「終着駅」にその足を止める「其の日」まで、
無事に走り続けてくださいと祈るしかないのは寂しさもあり悔しくもあります。
 天寿を全うした車両達に敬礼!
(追記・長らく小倉工場に放置されていたED73-1016号機は昨年末小倉工場にて・
同じく旧大分運転所のEF30-3号機は今年3月 に解体されました。合掌)


投稿者 ガンバレール
投稿日 6月 1日(木)03時45分23秒
タイトル Re:出雲用車両解体
解体場にいるオハネフ25−203の姿に、胸が痛みます。
今は亡き博多あさかぜで乗車した、私自身にも非常に思い出深い車両でした。
近々、北斗星に乗って郡山を通る予定ですが、
このオハネフ25−203も鉄くずになってしまうかと思うと悲しい限りです。
投稿者のホームページ


投稿者 雑魚
投稿日 6月 2日(金)17時53分44秒
タイトル 保存車両
> 遂に「出雲」の寝台車達も解体線の露と消えていくのですね。

今頃は「999号」よろしく 高天原へ「回送」運用の途にあるのかも知れません。さて
先頃「出雲」編成の一部が、閉館を控えた交通博物館の「屋上」に展示されましたね。
同様に、後継施設となる鉄道博物館でも展示の余地ありと思われますが、同博物館の
公式頁によると、一階「歴史ゾーン」におけるブルトレ関係展示はEF58+ナハネフ
22形(個人的に「あさかぜ」の印象が強いのですが、ゴハチとペアとなると、HMの
掲出愛称が気になります)と、比較的クラシカルな陣容なのですね。

D51を中心の「転車台」に据えた機関区風味の展示室配線には、愛好家垂涎の名車が
勢揃いですが、特に注目されるのが、上越線の「とき」で御馴染み クハ181形ですね。
良くぞ今まで残っていたものですが、改めて考えると、信越・白新線の分岐点付近を
通過する度に気になっていた、屋根つきの保存車両だったのですね。

客車のみに限るなら、碓氷峠鉄道文化村の屋外展示の方が、より充実している様にも
思われますが、何にしても来年秋の開館が楽しみです。新都心の合同庁舎には、稀に
用務で訪れる為、その序でに……などと皮算用。ちなみに、合同庁舎一号館の上階は
開庁まもない頃、大宮駅の展望が良く効いて「北斗星」などの撮影に供したのですが、
その後、視界を遮る様に生保会社の高層ビルが建ってしまったのは残念でした(^^)

さて「出雲」の展示については、山陰地方における、歴史的なステイタスにも鑑みて、
かつての「ネグラ」である西出雲の車両基地に、永らく留置されていたDD51牽引の
14系座席車四両編成よろしく、フル編成で保存留置しては、とも感じます。ここなら
山陰線を通過する列車から一瞥できますが、一般開放を前提としない施設で、しかも
雨曝しの展示となると、あまり意味はないのでしょうか。



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