倶楽部メモ(300)
平成17年11月22日〜12月 2日


投稿者 太田拓也
投稿日 11月22日(火)15時40分49秒
タイトル AREBブレーキについて
>青列車さん
私が本で読んだ知識だと、ヨンサントオ以降カヤ21登場までの20系は高速運転しないときでも対応機関車が必要で、
山陽線のEF58のP改もそれが原因だそうです。

といっても私はブレーキの知識全然ないので具体的なことは話せないのですが・・・ 
C57のブレーキハンドルで12系のCLブレーキが作動する原理を知りませんし、
極端な話C62からカシオペアの電気指令ブレーキを動かせるのでしょうか?
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投稿者 青列車
投稿日 11月22日(火)19時25分25秒
タイトル 【20系】ブレーキ…あれ?
お邪魔しますm(_ _)m
>>太田様
ご指摘有難う御座います。仰る通り私自身発言した後で矛盾を感じないではなかったのです。
(EF58の最高速度って時速95キロ?時速100キロ?)
仰る通りAREB装備以前或いはカヤ21、若しくは12系併結用の1000、2000番台そしてオニ23には、
カマの制限はないのは確かですが、AREBの時代…確かに定期運用ではP型(またはMR管装備車?)が基本でした。
ただ、装備が無くとも速度を控えれば大丈夫という話は以前ニフティの鉄道フォーラムの中であった記憶があるのです。
生憎当時のログはパソコンの機種変更の際失われてしまい今となっては確認のしようがなく誠に恐縮ですが…
最近RP誌でも20系客車の特集があったのですが当該バックナンバーは生憎仕舞い込んでしまい確認が取れません。
さて、AREBブレーキ使用で最高速度が時速110キロになったのはよんさんとおからであることは皆様ご存知の通りですが、
予備車がギリギリしかない状況で毎日長距離運用をこなしていた当時の20系客車。
登場当時は装備していなかったブレーキシステムを一朝一夕に全車一斉に取り付けることは不可能です。
当然ながら定期入場時に順次工事を行うでしょう。
場合によっては、AREB装備車、未装備車同士が編成に入ることもあったのでは?
ただ、その時点では東京発着の九州方面行きといえども時速95キロまでしか出していなかったので、
直接の問題はなかったのではないかと愚考しますが、実際のところは私には判りません。

このあたり再度私の方でも調べてみます。
また、詳しい事情をご存知の方がいらっしゃれば、ご教示いただけましたら望外の幸せに存じます。


投稿者 ア・ドン
投稿日 11月23日(水)23時09分43秒
タイトル 陸羽東線のC58
便乗質問になりますが、陸羽東線で「あけぼの」を牽いたC58のナンバーは何番が相当するでしょうか。
20系であけぼのをやるときやってみたいもので…。
おわかりの方がおられたらよろしくおねがいします。


投稿者 103列車機関士
投稿日 11月24日(木)20時29分36秒
タイトル 三丁目の夕日
皆様、ご無沙汰しております。
今度の土曜日に表題の映画鑑賞でもしてこようかと思ってます。
ヒロインが集団就職列車に乗ってやって来るのですよね!
この列車は教科書や「団塊の世代」の方々の思い出話に良く登場しますが
これは彼らが集団で乗車した「みちのく」「十和田」などを指しているのか
それともそのような列車が仕立てられたのでしょうか?
当時の様子に思い出のある方がいらっしゃいましたらどうかお話をお聞かせください。


投稿者 てりてり
投稿日 11月24日(木)20時48分42秒
タイトル 103列車機関士様
 私は全く経験が無いのでお話は出来ませんが、
参考資料としては、JTBのキャンブックスより「昭和を走った列車物語」、日映ビデオ「鉄路の昭和史・第1巻昭和の乗客名簿」があります。
これによると、集団就職用の臨時の団体列車であった様です。
 取り急ぎ失礼しました。


投稿者 下総守こみやさん(^^)
投稿日 11月25日(金)01時18分7秒
タイトル 集団就職列車
実体験ありませんが臨時で仕立てられたようです。各駅停車に増結も考えられますね。
ただ間違いないのは急行に乗車はなかったようです。
出世して急行しかも一等寝台で故郷に帰るのを夢見ていたのですから。
津軽が出世列車と言われていたのはこのような所からです。
志を得ざれば再びこの地を踏まず。上京の際故郷に残した言葉ですが誰でしょう?答えは財布の中にあるよ(^^)



投稿者 岩崎安房守義将
投稿日 11月25日(金)13時31分28秒
タイトル ああ上野駅中央口柵内案内所
皆様御無沙汰しております、岩崎安房にございます。
 集団就職列車は労働省が要請した「包括団体専用臨時列車」で、扱いは「料金免除の準急」だったと記憶しています。
 ルートは最盛期で「T口」(東北本線青森・盛岡〜上野間、一部常磐線経由)、「O口」(奥羽本線経由青森〜上野間)、
「J口」(羽越本線上越線経由秋田〜上野間)、「B口」(常磐線相馬・水郡線郡山〜上野間)とあったそうですが、
磐越西線経由で上野へ入ったものもあるそうで・・・
 殆どはハザだったそうですが、40年代後半には12系や10系寝台も利用された事があったのでは?と記憶しております。
 車内清掃会社の古株社員さんに伺ったお話ですが、
集団就職輸送列車の清掃に入ると1両に最低一つは「手紙の束」が落ちていたそうです。
半数は持ち主が取りに来ると言う事でしたが、半数は「意識的に置いて行ったのでは?」と・・・
 懐かしい人達の暖かさを敢て捨てて、背水の陣で臨まなければ都会では持たなかったのでしょうね、
都会育ちの小生などには想像も出来ません。
 T口やO口の列車は在来型一般車8Bが定番だったとか。
時刻は盆暮れ正月GW時の「臨時八甲田」「臨時津軽」のスジで暫く残ったそうです。

 ちょっと客車には関係無いのですが、
弊連盟で「新選組」つながりの関係がある鹿島鉄道で1月4日に定期列車の機材変更をして、
原則単行運用しないキハ714号にヘッドマークを掲げた「新選組」号が仕立てられる事になり、
弊連盟も要員を派遣するものとなり、その告知を・・・
 新潟鉄工所で1953年に作られ、元夕張鉄道車としては珍重な同車の単行運転はなかなか機会がありません。
定期列車として運転されますから特別な会費や予約も不要です。詳細は弊連盟ページを御覧下さい。
 客車がとにかく無いので鉄道で企画と言っても制限があります。それを痛切に感じた企画がこれでした・・・
とは言え接続レールが切られた鹿島鉄道ではJR東日本の在来型一般車を気軽に放り込めなくて・・・
あ!管理人様無関係で済みませんでした・・・
 下総守様、かのお財布の中の方・・・小生はその方すら中々お目にかかれません!
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投稿者 ストーブ列車
投稿日 11月25日(金)22時14分45秒
タイトル 新選組号ですか…
鹿島鉄道で1月4日、キハ714号にヘッドマークを掲げた「新選組」号…いいですね、
新選組も好きな私は暇があれば乗りにいきたいです。

新撰組の番組といえば、以前テレビ東京系列で壬生義士伝を放送しましたが、
大正時代の列車の中で主人公の子供が記者の取材を受け、最後に窓をあけて故郷の空気を吸うシーンがありました。

このころの客車はもちろん木造客車で、窓は157系のような下降式。
作品中ではちゃんと表現されるかなと思いましたが、ちゃんと下降式の窓でした。

某番組のように安易にやまぐち号のレトロ客車を使わずに実物に忠実に再現していたのがうれしかったです。

そういえば、下降式窓を採用した157系は雨水で腐食したと聞きましたが、
木造客車は下降式窓で木材が腐らなかったのでしょうか?

ちょっと気になっているのでご存知の方は教えてください。


投稿者 岩崎安房守義将
投稿日 11月29日(火)10時31分8秒
タイトル 不確かですが・・・
本格的に寒くなって参りました、管理人様そして皆様、どうか御自愛下さい。
 さて、ストーブ列車様の御質問に関して二つ程・・・
ひとつは木造車体の下降窓、まだ職人や神々が多々生きていた時代ですから、
経験に基づいて腐食が目立つ前に交換したそうです。
その点、客車と電車では違ったそうですが、基本的に板材打ち付けての車体ですから、一部交換は雑作も無かったらしく
(今日では上貼か全面交換)「鋼製(客車の車体)は面倒」と誰か仰っていた記憶(1986年4月苗機)があります。
 勿論、その材木も多々塗料を重ねて耐食性を向上させたのだそうですが・・・
 もう一点はロケの事です。
 ロケーションコーディネーターの経験者としてあまり誉められない「暴露」ですが、
テレビドラマの渡辺謙さんのS(シーン)は、交通博物館でロケしたもの。
 実はかの木造客車はロケセットとして随分多く使われております。
大井川鉄道が「走り」で使われる定番なのに対して、大抵客室のロケは車庫か交通博物館かスタジオです。
 小生関わったドラマの場合、スタジオはありませんでした。
 最も豪快だったのは「急行まりもの女」と言う1HD(1時間ドラマ)で、
札転検修庫にスハネフ14500+オハ14500ss+オハ14500(ssは「まりも」指定席用拡張座席車)の3Bを並べて
暗幕を雨樋に掛けて角材で固定し、空調の為にスハネフのエンジンを回して(撮影本番の時はエンジンを停止)と言うもの。
 庫の中でエンジンを回すととにかく音が響いて車内の会話が収録出来なくて、
小生は「札幌車掌区古瀬専務」として役者兼設備技師として(本当はロケ担当製作主任補)参加したのですが、
丁度C623機運転中だった事もありSLチームの車掌さん達に冷やかされたものでした・・・
 乗客はスタッフと手稲駅前で前日にナンパした男女などで、
「走らない」列車の乗務なんてなかなか経験出来ない楽しいものでした。
 この他、某刑事ドラマでは運転中の列車を拝借して、なんて言うのもありましたが、
尾久客車区や品川客車区、三鷹電車区は通わせて頂きました。
 実は停車している列車のロケなら原則無料だったもので、昨今は使用料が発生しますが、そんな事情もあったのです。
 この手のドラマで「寝台特急××事件」なんてのがありましたら、御注意になって御覧下さい。
「運転」か「留置」か・・・・ロケコ(ロケーションコーディネーター)の腕が悪いと一発でバレてしまいますので(笑
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投稿者 千コノ
投稿日 11月30日(水)00時59分34秒
タイトル ヨンサントオ以前の暖房について
すみません ご存知の方ご教示ください。
急行八甲田を模型で再現しようとおもったのですが,
ヨンサントオ以前の東北本線の電化・非電化を直通して走った列車なので

上野〜EF57〜黒磯〜ED75〜盛岡〜DD51〜青森
(記憶違いでしたらごめんなさい)

この場合,列車の暖房はどのようになったのでしょうか
SGだったのでしょうかEGだったのでしょうか
ご教示いただければ幸いです


投稿者 青列車
投稿日 11月30日(水)21時17分30秒
タイトル 【客車】基本的に皆2000番台
お邪魔しますm(_ _)m
>>千コノ様
お尋ねの急行八甲田ですが、少なくとも黒磯〜盛岡間は電気暖房で、非電化だった盛岡以北は蒸気暖房です。
使用された客車は全て2000番台です(少なくとも冬場は2000番台車でないと使い物になりません)。
上野〜黒磯間については何ともいえませんが、EF57、EF58の電気暖房化の進捗にあわせたものと思われます。
移行期には、電暖装備機が運代に入れば電暖が、SG装備機が入ればSGだったのではないでしょうか?
或いは夏場のうちに所要機数分改造しておいたのか?とも思いましたが、
当時は今とは比べ物にならないほど客車列車が多く当然ながら運用される旅客用電機も多く
一夏で全機改造できたとも思えませんが、実際のところはどうだったのでしょう?


投稿者 竹中@ノーブルジョーカー
投稿日 12月 1日(木)00時01分1秒
タイトル Re:ヨンサントオ以前の暖房について
>千コノ様
「EF57ものがたり」(交友社刊)には
「昭和40年11月から42年3月にかけて新製以来搭載されていた列車暖房用竪形煙管式ボイラを撤去し、
列車暖房用電動発電機を搭載した。」と記述があります。
青列車様が指摘のように改造には時間がかかっているようです。
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投稿者 EF5841
投稿日 12月 1日(木)10時11分27秒
タイトル 電暖改造
58と57を比較して、蒸気発生装置の取扱が57が不便であったことから 
57の方から電暖改造されたと記憶しております。
当時、小生が撮影した宇都宮の58は、SGです。


投稿者 千コノ
投稿日 12月 2日(金)09時00分32秒
タイトル 暖房装置について(御礼)
皆様 早速のご回答ありがとうございました。
早速,模型の参考にさせていただきます。

客車からSGの蒸気が上がると,冬だな〜と
実感したのですが・・・
寂しくなりました。当方は113系なので
座面が焼けそうに熱いときがあります。
SGのほんのりした暖かさがなつかしいですね



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