倶楽部メモ(283)
平成17年 8月17日〜 8月20日

投稿者 下総守こみやさん(^^)
投稿日 8月17日(水)00時40分27秒
タイトル 安房殿
駅に停車中の客車も車庫の気動車も無事であります。/(^^)(Nゲージ)まったくの同感ですね。
私が中学高校時代ですからこの感動がある人は少なくなっているのでは。
ブルートレインとは感覚が違いますね。
大きな駅での長時間停車ではよく立ち食いそば食べました。今は持ち込みどんぶりじゃないと(^^;
客車内は静寂でも駅のアナウンスと発車ベルはうるさかったな。
でベルが鳴り終わりしばし沈黙の後汽笛。
ガクンと衝撃がきてゆっくりとポイントの通過音。
そして徐々に加速をしていきます。



投稿者 にんいくたあ
投稿日 8月17日(水)10時16分27秒
タイトル ぶどう色2への塗り替えは何故?
安房様・下総様 名文ありがとうございました。
遠い昔の忘れていた旧型客車の雰囲気、乗り心地、その時代の空気がよみがえってきました。
と言っても私が旧客に乗ったのはぶどう色2号とブルー塗装が混結していた時代で 、もう旧客末期の頃です。
 ところでこちらのホームページを拝見しますと、
旧客の塗装がぶどう色1号から2号に塗り替えられたのは、昭和34年だとあります。
ずいぶん古い話で、そのときの状況など知るよしもない私ですが、なぜ塗り替えをしたのでしょうか。
 これが青大将色やはつかり色の塗り替えであれば、イメージアップをねらったものだと素人でも理解できるのですが、
深みのある茶色からチョコレート色への塗り替えは、当時の国鉄にとって塗り替えのメリットがあったとは思えず、
色味が少し変わったかなという程度、全車の塗り替えには相当な費用もかかったはずで、何故?という疑問が残ります。
  話は変わりますが、この掲示板での先輩諸氏のコメントを合冊にして、出版してほしいくらいの中身です。
本ホームページの今後の発展をますます期待しております。



投稿者 青列車
投稿日 8月17日(水)13時32分6秒
タイトル ぶどう色の想い出
お邪魔しますm(_ _)m
先日部屋の片づけをしていたところ、その昔撮影した写真が出て来ました。
元より、きちんとした機材や腕があったわけではなく
(その後一眼レフカメラは購入しましたが結局撮影技術は身についていません)
資料的勝ちも皆無の駄作・愚作・お目汚しではありますが、当時の風景の一つとしてご笑覧くださいm(_ _)m

撮影場所は尼崎駅です。大阪発の福知山線直通列車。
カマはDD511180、カマ次位の客車はオハフ33123です。
撮影日時の記憶は曖昧ですが概ね1982年の夏場だったかと思います。
当時と今とでは界隈の風景もまるで変わったかと存じます。





投稿者 EF5841
投稿日 8月17日(水)20時09分41秒
タイトル ぶどう2号
繰り返しになりますが、昭和34年6月の本社通達により、色指定がマンセル標記になりました。
それ以前、概ね電車及びEF58がぶどう2号 それ以外の電機機関車等及び客車がぶどう1号でした。
客車列車の動力かの流れの中にあって、両者を一本化したというのが背景としてあるのではないでしょうか。


投稿者 岩崎安房守義将
投稿日 8月17日(水)23時42分3秒
タイトル 皮肉にも
 にんいくたあ様、でしたね・・・ごめんなさい御名前を間違えました!お詫びして訂正致します!
 下総守様とは同年代の様で、感じた音や匂いや味は同じ様なものでなかったかと・・・
青列車様の画像、感じますねぇ〜完璧に音が聞こえて参ります。
(駅そばもそんなそんなメニューは多くは無かった様な・・・)
 EF5841様の御指導の通り、「ペンキ種類の合理化=統合化」でぶどう色は一つになったそうですが、
結構こだわる現場も有って結局民割まで2色存在していた様です。
 逆に同じ塗料でも仕上工程が違うと別の風合になって別の色?なんて事にも・・・
 1971〜2年当時、急行103・104列車は「専用指定編成」となっていて「青塗装」のハザ限定で組成されていたそうです。
 某ソフトメーカーがC623機のスポンサーになった時、客車は在来型一般客車で色は青!と指定され、
つまりその1972年当時の「ニセコ」の復元ならばサポートしましょう!と言う条件で・・・
一部ではスハフ44のぶどう色化なんて囁かれていた現場は一気に吹っ飛んだ笑い話が残っております。
 一方で、現在残っている在来型一般客車の大部分がぶどう色なのですよね、何か皮肉を感じますが・・・
 ところで在来型一般客車の座席基部に「栓抜き」があるのを御存知の方いらっしゃいますか?
 35系あたりでは「標準」な筈なのですが、オハ47にもあった・・・と言う話が出ているものですから・・・
投稿者のホームページ



投稿者 下総守こみやさん(^^)
投稿日 8月18日(木)06時44分24秒
タイトル 栓抜きは
昭和50年代半ばですがテーブルに一体となって下に付いていた気がします。
あいまいな記憶ですが私があちこち行った時はオハ47が多かったので。
他の電車とかと混同しているかもしれません。
当時の駅そばはかけ、月見、てんぷら(かき揚)の三種類。
小さな乗換え駅でもおばちゃんが一人で切り盛りしていました。
お客は職員が多かったけど。
いまだに仕事途中で食べる立ち食いそばは天玉(^^)。当時の名残かな。
そばと弁当の話はたくさんあるけどここは客車について語る場でした。
でも客車には立派な脇役(^^)



投稿者 にんにくたあ
投稿日 8月18日(木)08時16分38秒
タイトル ぶどう色の塗り替えの疑問が解けました
 先輩諸氏のみなさま、ぶどう色に対する早速のご教授ありがとうございました
昭和34年以前の国電はぶどう2号、客車はぶどう1号と塗り分けていた事実をはじめて知りました 勉強になりました
 また安房様おっしゃる、民営化までぶどう1号の塗色の車両が存在していた事実も驚きです
 ひょっとして大鉄のSL急行の車両は今でもぶどう色1号でしょうか
 話は変わりますが、バックナンバーを拝見すると、上野発一ノ関行きの旧客の話が出ていました
 私も70年代末期宇都宮に親類の家があり、そこへ行くのに乗った列車がたまたまこの一ノ関行きでした
 小山あたりまで込んでいて、開けっ放しのデッキにたたずんで涼をとった記憶があります
 小山を過ぎて車内がすいて座った箱はオハ32だったような? 客車持ちはオクだったのでしょうか
 こんな列車が今存在したら、きちんと入線から乗り込み、一ノ関まで行きたいなあと思います
 窓をいっぱいに開いて、那須野ヶ原の涼風を浴びて、黒磯で遅い駅弁を買う
想像しただけで、なにか胸がいっぱいになります
 手元に昭和31年の交通公社の復刻時刻表がありますが、
東海道線のページを開くと東京発門司行き鈍行の運転が目につきますが、
それ以外にも島田を早朝出て、米原経由で富山行き711レ、などという鈍行列車の存在があります
 上りは富山を早朝出て掛川行き712レ 今では考えられない列車です
 ちゃんと二等も連結しているところがすごいのですが、
かなわぬ夢ですが、こんな列車の乗車ルポがきけたらなあなどといつも思っています
 話が長くなりました、また先輩諸氏の思い出話楽しみにしています
 それから私の名前は「にんにくたあ」が正しいです あのにんにくのにんにくです
 安房様お気遣いいただき申し訳ありませんでした


投稿者 クモイ103
投稿日 8月18日(木)13時21分20秒
タイトル Re:ぶどう色2号
 横レス失礼します。

>EF5841様
 電気機関車の中で、EF58だけがぶどう色1号でなく2号だったとのお話、不勉強にして初耳であります。
詳しいお話をお聞かせ願えないでしょうか?

 有名な昭和34年6月23日制定の「車両塗色及び標記方式規程」に伴って
同じ鉄道公報に記載された工作局からの「通報」によると、
「直流電気機関車、ディーゼル機関車及び特殊機関車の車体外部の塗色は、ぶどう色1号をぶどう色2号に改め、(以下略)」
となっています。
 ところが、かの星晃氏は、鉄道ジャーナル第213号(1985年3月号)所載「国鉄車両の色“あのころ”の話」の中で、
占領時代の話として、「当時の省線電車と電気機関車はのちにぶどう色2号と命名された,
旧型国電の色として知られる,あのやや赤味のある濃い茶色だった」と述べられています。
 EF5841様の言われるようにゴハチだけが例外的にぶどう色2号だったのなら、
この一見矛盾する2つの情報はともに理解できます。
つまり、いわゆる80系湘南電車に代表されるように、
車両の塗色を明るくして国鉄のイメージアップを図ろうとしていた時代背景のもと、
最新の花形急客機EF58もその一環として塗色を変更したのでしょう。
もしかして、ゴハチといっても新型車体だけのお話なのでは?と想像がふくらみます。
 さらに言えば、客車においても、昭和30年に登場した軽量客車がぶどう色2号で登場したと言われていることが、
同じ流れの中ですんなりと理解できます。

 …などと勝手な妄想をふくらませてしまいましたが、
何か押さえておくべき情報源がありましたら、ご教示いただければ幸いです。

# このへんのとってもディープな話は、某別板に行った方が良かったりして…?


投稿者 スハ32
投稿日 8月18日(木)15時45分17秒
タイトル 123列車
にんにくたあ様
以下のサイトの情報によりますと、123列車の担当は盛モカの様です。
http://reingold.ld.infoseek.co.jp/page043.html
基本的に東北本線の普通列車は、仙台(仙フク、仙コリ)、盛岡(盛モカ)の車が入ってたようですね。
ちなみに常磐線は、北オクの車でJR東日本のスハフ422173が、その生き残りです。
上野にいると東北からの客車は、スハ32、スハ33、オハ61、茶色のスハ43やオハ35など
上野口では、見られなくなった客車を連ねて入ってくるので面白かったですね。
 123レに入ってたオハフ61が白熱灯で13番線の暗いホームの中で際立ってたのを思い出します。


投稿者 岩崎安房守義将
投稿日 8月19日(金)04時53分6秒
タイトル 下総守様ありがとうございました。
 下総守様、御参考意見ありがとうございました。
 どうも標準として「栓抜き」が取り付けられたのは35系までの様子でした。
 更に・・・客車列車とホームのそばは絶好のコンビですよね!同意です!

 上野口で在来型一般客車が消滅したのは1982年11月14日でしたが、
この日に在来型一般客車だったのは常磐線の6本だけで、高崎線2321・2326列車は既に12系になっていたのです・・・
上野発在来型一般客車下り最終「425列車」は案内放送まで小生がしたものですが、
もう涙でぐしゃぐしゃで(これは11M「みちのく」発車コール〜425回送接近・入線コール〜と流れがありまして・・・)
とても放送なんぞ出来ませんでしたから・・・
 実は駅員にとっては在来型一般客車と他客車・電車・気動車は放送文が違いますし、出発監視も違うのですね。
 ちょっと長いのですが・・・
(ホーム事務室て接近ブザー鳴動、接近表示灯点灯)
「20番線お下がり下さい、5時55分発常磐線まわりの仙台行普通列車入線致します」
(回221が入線)
「列車が停まるまでお待ち下さい・・・(列車停止)どうぞ御乗車下さい。尚、扉は自動ではございません・・・」
(20番出発表示点灯・運転主任ベル入れ)
「お待たせ致しました・・・仙台行普通列車発車です、日暮里、松戸、我孫子、取手・・・の順に停車して参ります・・・
発車です!デッキ御乗車の御客様、デッキの扉をお閉め下さい!常磐線まわり仙台行発車です!次は日暮里です・・・」
 なんてぇ雰囲気で「扉が閉まります」とは言わなかったのです。
ちなみに当時(昭和55年)ホームにあった資料(昭和49年制作)には「扉は自動で閉まります<電車等>」なんて・・・
上野では57・11まで「客車主体」の客務体制だったのですね。
 ちなみに・・・ウチで出した団臨のうち「ドリーミング・ムーンライトエクスプレス」と「わたらせエクスプレス」だけは
ホーム放送もやらせて頂いてこの「伝統の放送」を再現した!と威張ったら、
その後在来車列車では必ずやっているよ、と軽く返されてがっかりしたものです。
 余談ですが、在来車企画に不可欠なもの(あくまで企画屋サイドなのですが)が3つありまして、
1・暖房ホース、2・検査ハンマー、3・ヘルメット、
これに蒸機列車ならば4・ゴーグルと、琺瑯吊り下げ式行先表示票・特定小電力無線機があれば文句無しで・・・
その全部が置いてある弊連盟本部はまるで車掌区か客車区の資材事務所(笑)です。


投稿者のホームページ


投稿者 北オク
投稿日 8月19日(金)21時37分57秒
タイトル 常磐線旧客
管理人様、皆様こんばんは。

>岩崎安房守義将様
なつかしいお話し、お写真拝見しました。
写真は平から上り424列車ですね。当時よく乗りました。
機関車の次位がマニ37、次がオユ10だったと思います。オユ10が付く前は
スユニ60が付いていたと記憶しております。晩年の編成ではないでしょうか。
私も偶然この列車を撮影した写真があり確認してみました。

学生時代、尾久客車区で車内清掃のアルバイトをした時に常磐旧客を清掃した
思い出があります。赤羽よりの車内清掃などをする留置場で待っていると、
DD13に牽かれた旧客が入ってきて車内清掃をしながら、ゆっくり前進、
洗車機で客車を洗うのが常でした。当時の尾久は10系寝台、20系、14系
12系など様々な客車を見ることが出来ました。

旧客の思い出と言うとやはりデッキ乗車でしょうか。
車掌さんの目を気にしながらのドア全開のデッキ乗車はスリルを感じたものです。
たまに最後尾にオハフ33が付く事があったのですが、皆様ご存知のごとく貫通扉
が有りませんので、スリルがある展望車状態でした。


投稿者 下総守こみやさん(^^)
投稿日 8月19日(金)23時29分1秒
タイトル アクシデント
上野に到着する際駅のアナウンスは列車が停まるまで降りないでくださいって言っていました。
確かに停まるか停まらないか位のタイミングでデッキから降りるのは映画の主人公みたいでかっこいいのですが。
たまたま見ていて若い女性がヒラリ。早すぎるタイミングでコケタ(--;ストッキング伝線させて半ベソかいていましてた。
旧客復活の際はこんなことしないように。こんな些細な事でも危険とされて運転中止になるのです。
昔は日常茶飯事でも現在は違います。


投稿者 クモイ103
投稿日 8月19日(金)23時58分39秒
タイトル ああ上野駅
>岩崎安房守義将 様、北オク 様

 上野口の客レのお話、懐かしく拝読しました。
 学生時代のバイト、私は上野駅の折り返し車内清掃をやっていました。80年代前半のことです。
1982年11月14日には残念ながら「出勤」していませんが、
東北新幹線開業の前後で上野駅の様子が一変するのは目の当たりにしました。
 上野で車内整備をするのは直接折り返す電車列車ばかり(臨時で気動車急行もありましたが)で、
客レはみな尾久へ入りますから、私が携わることはありませんでした。
ただ、いつも12時前に出勤する遅番に入っていた私にとって、
11時台に19番線に到着する浪江からの常磐線普通客車列車が有り難く、
京浜東北線で来るのにわざわざ日暮里で乗り換えていました。
整備会社の事務所が地平留置線の近くにあり、18・19番線ホームからだと直接行けたためです
(改札通ってないけど通学定期の区間内だったので違法乗車はしてませんよ(^^))。
 仕事中に目に入る客レとしては、北オク様のお話にある424レだと思いますが、15時頃だったでしょうか(?)、
地平線のポイント群を端から端まで大横断して13番線に入ってくるのが印象的でした。
それを横目に、私はもっぱら「ひばり」「やまばと」など東北筋のエル特急を迎え撃っていました。
また19時台になると、地平ホームに「八甲田」や「津軽1号」が入線して、上野駅は夜の顔を見せはじめます。
しかしそのころ私は15番線で、盛岡から来た455系電車急行「いわて2号」のおびただしいゴミの山と格闘しているので、
ゆっくり眺めるひまなどありません(仕事中だっての(^^;)。
ホームには、折り返しの小金井行き普通列車に乗る通勤客が、長蛇の列を作って今や遅しと待っていますから…。


投稿者 下総守こみやさん(^^)
投稿日 8月20日(土)05時17分44秒
タイトル (無題)
北オクさんクモイ103さん貴重な体験記録ありがとうございます。
私はその年代のすぐ後某電鉄会社で駅務バイトやっています(~~)改札でハサミも持ったし駅の構内放送もやったし。
その時代八高線の高麗川駅で通過貨物列車がタブレットを引っ掛けホームにセットされた物を素手で受け取っていました。
かなり低速で行っていたのですが昔の客車急行とかどんな感じだったのでしょうか?
タブレットキャッチャーは知っているけどうまくいったのかな。
高速での通過駅タブレット受け渡しは迫力ありそー(^^)



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